2017/12/10

張愛玲の『中国が愛を知ったころ』

張愛玲著 『中国が愛を知ったころ』濱田麻矢訳(岩波書店刊 2017)
この本を読んで確認できるのは、文学作品とは、張愛玲のようなその時代にとって先駆的な視線をもつ人によって書かれ、読まれ、それを出版するしないを決定するのが早かろうが遅かろうが、とにかく最後は出版されて、こういう本が好きという読者に読まれつづけ、支えられるという事実だ。そんなことをしみじみと思う本だ。歴史の時間と、その歴史のなかで翻弄される人たちと、地理的移動を、いまという時代から一気に俯瞰できる、そんな出版を心から歓迎する。
 それにしてもいい本だ。目新しい「自由恋愛」という概念とその内実を手探りする登場人物たちの葛藤が、湿気を含まない鋭い視線で語られていく。それでいて、その情景内に描かれる、ふくよかな匂い、鮮やかな色、にぎやかな音、細やかな観察眼。
 
 思えば、恋愛とは、性にまつわる人間の感情、思想のきわめて内密なやりとりにほかならない。家父長制度によって抑圧されてきた東アジア的人間集団から「個人」が生まれいずるかどうか、それはかつて「生みの苦しみ」が生じる場でもあったろう。「個人」としての感情のやりとり、性のやりとり、それが可能となる生そのものの「場」。それは個人と個人が対等に向き合おうとするき、それぞれの真摯さが試される場でもある。いまもそれは変わらない。
 自分が相手を大切に思うのとおなじように、相手も自分を大切に思ってほしい──それが恋愛の根底にはある。しかし。男は複数の女を一段下の人間として愛でる、それを可能にする富や力を「甲斐性」などと呼んだ時代に、張愛玲の描く人物たちは「それでも愛する」と高らかに宣言するのだ。

 作者、張愛玲の生年は1920年、3年前に他界した1919年生まれのわたしの母と1年違い。あの時代を、植民地化と戦争の時代を、偶然にも、かたや中国で(その後は米国で)、かたや日本の北端で生きた女たちではあるけれど、「自由恋愛」という一点において、彼女たちの生と性には共通するものがあるのではないか。そんな長い時間軸で生の現場を鋭く凝視させる作品集である。翻訳された日本語もいい。