Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2017/11/14

J・M・クッツェーの自己形成期(3)

そしてTLSの記事はこんなふうにまとめられる。
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 ライブラリーは若き芸術家の発達過程における鍵となる瞬間を刻みながら、最初期の文学的嗜好との決別を示してもいる。『少年時代』(拙訳 インスクリプト)』で述べられるように、クッツェーはイーニッド・ブライトンの推理小説、『ハーディ兄弟』シリーズ、「ビグルズ」の物語を貪るように読みふける。だが、この自伝作品はこういった本以外のものを読もうとする早熟な野心をも記録している。「もしも偉人になりたかったら、まじめな本を読まなければいけないのはわかっている」と。
 本棚はまた、クッツェーのヨーロッパの伝統的古典との複雑で、発展途上の関係を示す鍵となる瞬間を物語っている。エッセイ「古典とは何か?」のなかで、クッツェーはバッハの「平均律クラヴィア曲集」を聞いてその場に釘付けになった経験を「その音楽が続いている間、私は凍りついてしまい、呼吸する気力さえなかった。音楽がそれ以前には決して語りかけなかったような仕方でその音楽に語りかけられていたのである」(『世界文学論集』田尻芳樹訳 みすず書房)と述べる。彼が詳述するように、それはプラムステッドの家の裏庭で、「15歳だった1955年の夏、ある日曜日の午後」に起きた光景だ。バッハ体験の瞬間は極めて重要な出来事であり、知的発展と文化的嗜好の方向性を立て直す契機を刻印しながら、クッツェーが「ヨーロッパのハイカルチャーを選び取るシンボリックな」瞬間を示している。しかし当時を振り返りながら、クッツェーは自分の情熱的反応は「その音楽に固有の性質」によって惹き起こされたものなのか、あるいはバッハとは当時の辺境的南アフリカにおける「社会的、歴史的行き詰まり」を表象するものではなかったのか、と問いかける。若いクッツェーがその当時収集しはじめた書籍類は、その意味で、このような切望の結果だったといえるだろう。
エリオット、ワーズワース、キーツが並ぶ
 クッツェーはここに写っている書物のうちの何冊かとはそれ以後も長く深い関係を結んでいく。2010年にポール・オースターに宛てた手紙のなかで、書棚にあった一冊、トルストイの『戦争と平和』について「半世紀のあいだ、大陸から大陸へ移動する僕についてきた。僕はそれに感情的な結びつきを感じている──あの途方もなく大きなことばと思想の構造物であるトルストイの『戦争と平和』に対してではなく、1952年にリチャード・クレイ・アンド・サンズという印刷所から出てきて、ロンドンのどこかにあるオクスフォード大学出版局の倉庫から出荷され、ケープタウンにあるその出版局の販売代理店に配送され、そこからジュタ書店を経由して僕のところへやってきたモノに対してだ」(『ヒア・アンド・ナウ』拙訳、岩波書店)と書いた。写真のなかで、書棚の下段中央付近にある、背の低い、かなり厚めの本がそれだ。
 『戦争と平和』の隣にある、何度も読み込まれた本もまた重要である。それはフェイバー&フェイバー社から戦後出版されたT・S・エリオットの『選詩集 1990-1935』で、ペンギン版のエリオットの散文作品補遺として出されたものだ。第二の自伝作品『青年時代』でクッツェーはエリオットについて、彼の「詩と初めて出会って圧倒されたのはまだ高校生のころだ」と書いている。「Homage」というエッセイのなかでクッツェーは「エリオットの詩はじつに魅力的だと思い」「T・S・エリオットふうな詩を書いた」と吐露している。作家クッツェーがイニシャルを二つ重ねるスタイルは(J.M.はジョン・マクスウェルの略)、トマス・スターンズが言うように、エリオットの影響といえそうだ。
 書棚にある何冊かの来歴をたどることも可能だろう。たとえば『ワーズワースの詩作品』は、自伝作品に記述されたことばを信じるなら、クッツェーの父親から譲られたものかもしれない。『少年時代には「ある日、父親がワーズワースの本を手にして彼の部屋に入ってきて、「おまえはこれを読んだほうがいい」 といって、鉛筆でしるしをつけた詩を指し示す」気まずい場面が描かれている。やがて父親が戻ってきて「ティンタン修道院・Tintern Abbey」について息子と話をしようとするが、困惑した少年は知らんぷりを決め込み、興味がないという。クッツェーのロマン派文学との関係には相反する心情が混在しているのは確かである──少なくとも『恥辱』(1999)のなかでバイロンへのオブセッションを取りあげていることからも、それは推測できるだろう。
 自己形成期の読書を振り返りながら、クッツェーはエッセイ「Homage」のなかで、これは「人が人生において、ほぼ不可避的に、自己のアイデンティティを定義したり、あるいは、少なくともその境界づけを開始する」時期であり、「成長するにつれて失われる熱烈な没頭によって」本を読む時期だと述べている。こういった思春期の気持ちがゆるんだとしても、むしろ、さらに自意識の高い、自己批判的な態度がそれに取って代わり、『ダスクランズ』(1974)から始まるすべての本にその刻印が残されることになったのだ。

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 二段重ねの書棚にならんだギリシア哲学、古典思想書、イギリスのロマン派詩人の詩集など、どれも『青年時代』で言及されたり、のちの作品にくっきりと刻印されるものだ。しかしこれは、16歳の少年が読破しなければならない、という強烈な野心によってならべた書物だということでもあるのだ。高校生というのは硬い哲学書を「読破」することを自分に課したがる時期でもあって、消化不良を起こしながらも、とにかく「読む」。クッツェーはおそらくこのうちから何冊かを大陸から大陸へ彼が移動するあいだずっと携えながら暮らしてきたのだろう。オースターに宛てた手紙に書いたように、たとえば『戦争と平和』、たとえば……
 クッツェーの自己形成期には、詩の本やロシア作家の小説はあってもイギリス小説がなかったことは彼の作品を考えるうえで、どこか決定的なことを物語っているように思えてならない。そこがわたしのような英文学門外漢にとって、まことに興味深いところなのだが。
(了)