先月、オクスフォード大学とロンドン大学SOASで、あいついで開催されたJMクッツェーをめぐるシンポジウム(というかほとんど祝祭的な催しに見えるイベント)の詳細なリポートが掲載されたのだ。
タイトルは:The Languages of J.M.Coetzee. (JMクッツェーの言語たち)
書き手は:Oliver Ready(オリヴァー・レディはロシア文学の翻訳者らしい)
これを読むと、50~60年代構造主義言語学の申し子であるJMクッツェーという作家と、翻訳を前提とした言語、言語メッセージ、作品行為をめぐるこれからの議論の方向性が、ぼんやりながら透かし見える。
少年ジョンが16歳のときに、35mmで撮影したセルフポートレート |
TLSに載った写真は、少年ジョンが16歳のときにイタリア製のカメラ、WEGA 35mm で撮影したセルフポートレートだ。見るものの想像力を喚起してやまない写真だ。文中では、このころから cool detachment があらわれていると指摘されていて、これはある意味、うなずけないわけではないけれど、まあ、それは数々の作品を読んできた者の後付けの理屈といえなくもないかな。
そうそう、Slow Man をオペラにしたベルギーの作曲家ニコラス・レンスが、制作を終えてプレミア上演を待つ作品「Costello – this body that I am」からテスト・レコーディングしたアリアをかけてくれたとか。モチーフは「I believe in what does not need to believe in me」で、もちろんオペラのセリフはクッツェーが書いた。へええ〜〜またまたコステロか! 次のクッツェーの作品もコステロ絡みらしい。これは気になるな。