Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/05/01

クッツェーにとっての「英語」


オースター&クッツェー往復書簡集で今日訳したところは面白かった。この本の最初の白眉となる部分かも。

 母語の話から始まり、英語をめぐる二人の考え方の違いがくっきり。おなじヨーロッパから(旧)植民地へ移動した父祖の末裔でも、住んでいる土地の差異でここまで違うか、と思わせるものがある。いや、個性の違いかもしれない。
 とりわけ、クッツェーがオーストラリアへ移住したあと、自分自身と英語とのあいだの距離がどんどん広がっていった、と書いているところは訳していてもスリリングだった。オーストラリアは1945年以降、南部ヨーロッパやアジアからの移民を奨励してきたにもかかわらず、また、アボリジナル言語がいくつもまだ生き延びているにもかかわらず、この国はモノリンガルであり、「English」である点では南アフリカの比ではないと。その異常なまでの英語漬けの生活が、彼にとって、アングロ的世界観に対する懐疑的な距離を広げるきっかけになったらしい。

 クッツェーが母語について深く考えるようになったのは、そう、デリダの「Le monolinguisme de l'autre, 1996*」を読んでからで、この本を愛読している、とオースターに書いた手紙の日付は2009年5月11日だ。ちょうど『Summertime』を脱稿して、次の作品を構想していた時期である。それで、今日訳したところには妙に腑に落ちる瞬間があって面白かった。

 思えば、最新作『The Childhood of Jesus』は構造的に見るならカットワーク刺繍のような作品、つまり穴だらけなのだ。素材の布は英語だけれど、そこには他の言語のことばの穴がぽこぽこあいていて、縁をきれいにかがった穴の向こうに透かし見えるのは、『ドン・キホーテ』を持ち出すまでもなく、明らかにユートビア/デストピアがないまぜになったスペイン語世界の広がりであり、なかにはかの有名なドイツ語の「魔王」の歌詞を「英語だ」と大人も子供も述べる箇所さえある。なんというひねり!
 
☆上の写真は、クッツェーとオースターが審査員として参加したポルトガルの映画祭のときのもの。そのときの話はこの書簡集にも詳しく出てくる。

*この本の日本語訳を発見しました! しかし、なんで近くの図書館にないんだろう、デリダって! 2冊しか入っていない。借りる人がいないのかなあ〜〜。