2023/11/28

東京新聞夕刊(11月28日)マリーズ・コンデ『料理と人生』について書きました

 今日の東京新聞夕刊にマリーズ・コンデの『料理と人生』(大辻都訳、左右社)について書きました。リレーコラム「海外文学の森へ 69」です。

 すでに、やわらかなアプローチによる書評がいくつも掲載された人気の作品です。コンデ作品では1998年に日本語訳が刊行された『わたしはティチューバ:セイラムの黒人魔女』(風呂本惇子・西井のぶ子訳、新水社)以来の人気かも知れません。ついに、日本語読者もここまで追いついたか、なんてため息まじりの歓声をあげています。

 コラムでは、コンデの最初の自伝的作品『心は泣いたり笑ったり』(青土社)を2002年の暮れに訳した者として、これまでコンデが書いた4冊の自伝的作品を中心に、フランス語文学と奴隷制の歴史というコンテキストで、この作家の仕事を考えてみました。

 カリブ海に浮かぶグアドループという島に生まれ、16歳でパリに留学してからシングルマザーになり、ギニア人俳優と結婚して「憧れの」アフリカに渡り、筆舌に尽くし難い辛酸を舐めたであろうマリーズ・コンデが、ガーナでユダヤ系イギリス人のリチャード・フィルコックスと出会ったのは決定的な気がします。フィルコックスはコンデ作品の英訳者であり、終始献身的なケアラーであり続けて、『料理と人生』の聞き書きをして本にまとめた人です。

 コラムを書いてから気がついたのですが、マリーズ・コンデは、彼女が長年大学で教えたアメリカという国で、仲間に入れてもらえなかったという「アフリカン・アメリカン」の人たちとアフリカ大陸とをつなぐ貴重な立ち位置にあるのではないでしょうか。

 すでに誰かが指摘しているかもしれませんが、大西洋を中心にした地図を眺めながら思うのは、1950-60年代のアフリカ体験を書いたアメリカス出身の作家として、重要な仕事をした作家なんではないかということです。

もちろん、キャリル・フィリップスのような、カリブ海の小島に生まれて生後まもなくイギリスに渡り、学び育った英語で書く作家になって、アフリカへ旅をしてその経験を書いた人もいます。でも日本語圏文学では、そこまで視野に入れて「アフリカ」を見て、さらに「アメリカス」の文学を考える総合的な歴史的視点は、まだまだこれからなんだろうなと思うのです。


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2023.12.13──東京新聞のコラム、貼っておきます。



2023/11/26

クリスマスのリースを出して飾った

23日の青山ブックセンターでのイベントが無事に終わり、ようやく、ささやかなクリスマスのリースを出して飾った。

 斎藤真理子さんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)には大勢の方が来てくださって嬉しかった。どうもありがとうございました。いろいろ質問も出て、あっという間に時間が過ぎました。

 友情出演してくれた「塩の会」のメンバーにも感謝、イベントの準備をしてくれた編集者、書店の方々、おせわになりました。Muchas gracias!

 写真をアップしたクリスマスのリース、一つは80年代から我が家にある古典的な、というか、素朴なリースに自分で集めた草の実を絡めたもの。もう一つは数年前にやってきた、雪をかぶったような、ちょっとおしゃれなリース。いつものように、一つはリビングの天井近くの壁に、もう一つは玄関ドアの内側に飾った。

2023/11/18

11月23日、「公開 塩の会」が青山ブックセンターで開かれます

 斎藤真理子さんとくぼたのぞみの往復書簡『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)の刊行を記念したイベント「公開 塩の会」が、表参道の青山ブックセンターで開かれます。この書簡集には「藤本和子」という名前がほとんど毎回出てきます。それで「塩の会」の面々が出てくれることになりました。

 23日、祝日の午後1時半から。 

 登壇するのは、八巻美恵、岸本佐知子、斎藤真理子、くぼたのぞみ、です。

 申し込みはこちら。



『塩を食う女たち』など、藤本和子の著作を復刊させるために集まった女たちの会だったので、そのタイトルから「塩を食う女たちの会」とか「塩食い会」とか「塩の会」とか、その時々で勝手気ままにいろんな呼び方をしながら飲み会を開いて、知恵を出し合ってきました。

 これまで4冊が文庫化されました。

 この辺で一区切り、というわけでもないのですが(だって飲み会はまだまだ続きそうですから)とにかく、ちょっと振り返ってみるか、ぜんぜん振り返ったりしないか、ひたすらだだーっと前へ進むのか、何が飛び出すかちょっと想像がつかないイベントですが。。。

 よかったら、ぜひ!

 申し込みはこちらです。

2023/10/23

『曇る眼鏡を拭きながら』斎藤真理子さんとの往復書簡集

 2022年初めから一年間、集英社の雑誌「すばる」で、斎藤真理子さんと往復書簡というのをやりました。タイトルが「曇る眼鏡を拭きながら」、それが本になりました。タイトルもそのまんま『曇る眼鏡を拭きながら』で、集英社から10月26日発売です。

 その「みほん」がやってきました。とってもお洒落な本です。


装丁:田中久子さん

装画:近藤聡乃さん

ひとりでも拭けるけど、ふたりで拭けば、

もっと、ずっと、視界がひろがる。

「読んで、訳して、また読んで」


 2021年の秋に、クッツェー作品の翻訳で長年書きためてきたものを一冊の本にまとめて、エッセイ集『JM・クッツェーと真実』(白水社)として刊行。ほかにもメモワール『山羊と水葬』(書肆侃侃房)や『JMクッツェー 少年時代の写真』(白水社)もほぼ同時刊行だったので、もう完全燃焼でした。はあ~~~と気持ちが伸びきっていた直後に、なにやら怒涛の出来事が起きて、2022年はずっとその波を被りつづけました。そのあいだ、「すばる」の連載が、ともすれば倒れそうになる心身をシャキッとさせるための柱になってくれたのです。伴走してくださった斎藤真理子さん、若い編集者の2人のKさんには本当にお世話になりました。ほかにも支えてくださった方々に(お名前はあげませんが)深く、深く感謝します。💐

 ついに、こうして本になって感無量です。ありがとうございました。

 この本の発売を記念して、発売日の10月26日から表参道の青山ブックセンターで、「眼鏡拭きライブラリー」というフェアが始まります。本のなかに出てくる数多くの書籍のなかから(70冊ほどあったかなあ。。。)、現在入手可能なものから、真理子さんとわたしが20冊ずつ選んで、そのうち各10冊にはポップもつけます。いまその原稿を送ったところ。

 『曇る眼鏡を拭きながら』の発売を記念したイベントもいま準備中で、詳細はもうすぐ発表されるはずです。どうぞお楽しみに!


2023/10/01

J・M・クッツェー:ヨーロッパと外の世界──バルセロナ現代文化センターでの対話

 久しぶりの更新です。

9月30日、バルセロナ現代文化センターで、JMクッツェーとヴァレリー・マイルズの対話が行われました。

Europa i el món de fora/ヨーロッパと外の世界」という対話は、ヨーロッパ文化をめぐるいくつかの対話や講演の締めくくりだったようで、早速、カタルーニャ語のウェブサイトに報告が載りました。

詳細はいずれバルセロナ現代文化センターのウェブサイトに掲載されるそうですが、昨日の対話でクッツェーは<作家自身の「いま」と世界の「いま」>を結びつける重要な発言をしているようです。

とりわけ、この記事のタイトルとなった「J.M. Coetzee: “Escriure té més a veure amb cuinar que amb filosofar”」 の最後に、ロシアに対する世界のあり方をめぐるクッツェーの意見が紹介されていて、これは注目に値します。現在ロシアに対して行われている制裁が、国内にいて抵抗を続ける作家たちを見えない存在にすることにならないか、という危機感を表していて、アパルトヘイト時代の南アフリカに対して外部諸国が実行した文化制裁、経済制裁と、当時その国内にいたクッツェーの心情を彷彿とさせます。

(以下は記事をカタルーニャ語から英語、さらに日本語へG翻訳して、引用者が少しだけリライトしたもので、ざっくりした意味と理解していただければ幸いです。)

"ロシア古典の偉大な読者である作家は、この国についての彼の見解で話を終えたいと考えていたが、それはここ数十年の歴史、ソ連の敗北、そして90年代の資本主義の「有害な」押し付けによって彩られていると彼は語った" 

今はロシアとの関係を断ち、彼らを忘れ去るべき時ではない。 私たちはあらゆる機会を利用して、彼らの努力を支持していることを彼らに示さなければなりません。」(下線引用者)


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J.M. クッツェー:「書くことは哲学よりも料理と関係がある」

ノーベル文学賞受賞者がCCCBでヴァレリー・マイルズとともに言語と文学について振り返る: 

Europa i el món de fora ヨーロッパと外の世界──ヌリア・フアニコ・ルマ、@バルセロナ 


作家 J.M. クッツェー(南アフリカ、ケープタウン、1940年生)は今週土曜日、バルセロナ現代文化センター(CCCB)を訪れ、ヨーロッパ大陸に対する自身の見解を語った。 しかし、クッツェーは南アフリカで生まれ、20年間オーストラリアに住み、残りの人生を米国で(引用者註・英国でも)過ごした。 このため、「Europa!」サイクルの締めくくりの話を始める前に、自分が習得していないものについて意見を言うことに非常にアレルギーがあると説明している。 「現在、全国民が自分の意見を広めるチャンネルを持っており、その意見の正当性や強さは、その意見が真実かどうかではなく、誰がその意見を支持するかによって決まります。私たちは、ある種の意見が生き残るダーウィンのような意見の市場に住んでいます。そうしない人もいます」とクッツェーは、作家・編集者のヴァレリー・マイルズ(ニューヨーク、1963年生)との会話で語った。


両者とも「ヨーロッパでは部外者」と感じていると告白しており、おそらくそれが地政学的問題よりも文学的な対話に焦点を当てた理由だろう。 この会議では、ガブリエル・ガルシア・マルケスやミゲル・デ・セルバンテスからロバート・バルザー、オクタビオ・パス、ギュスターヴ・フローベールまで、何人かの文学者を参照。 2003年にノーベル文学賞を受賞したクッツェーは、バルセロナを舞台にした最新小説『The Pole』(エディション62、ドローズ・ウディナ訳)の創作ギアを掘り下げている。

 カタルーニャ州の首都を主な舞台に選んだ理由は何ですか? 「書くことは、哲学することよりも料理と関係がある。私はバルセロナについてあまり知らないが、あの物語ではそれがうまくいった。私は直感に従って仕事をしている」とクッツェーは説明した。


アングロサクソン文化における「詐欺師」


『ポーランドの人』はピアニストと既婚女性の間のあり得ないラブストーリーだが、プロットを超えて、作家はこれが彼にとって完全な意思表示であることを示した。 クッツェーはここ数年はまずスペイン語で本を出版し、その後英語で発表してきた。 「スペイン語が英語に代わる優れた代替手段となり得ることを示したかったのです。私はアングロサクソン文化の中で詐欺師のように感じてきました。」と、芸術創作においてスペイン語がますます重要になっている著者は強調する。


「どの言語にも、哲学的、宗教的、歴史的に非常に大きな重みを持つ単語があります。それらを適切に翻訳するには、その背後にある意味論的な文脈を移す必要があります。英語で単語を書くとき、私はそれがどのような意味になるのかという問題を意識しています。 翻訳者に質問し、翻訳者が見つけられる解決策は何なのかを尋ねます。そのため、問題を引き起こす可能性のある造語は避けるようにしています」とクッツェー氏は振り返った。(下線引用者)


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対話の相手、ヴァレリー・マイルズは『ポーランドの人』の謝辞にあがっていた3人の1人で、他の2人はスペイン語訳者のマリアナ・ディモプロス、フランス語訳者のジョルジュ・ロリです。カタルーニャ語訳は3月末に、イタリア語訳も8月末に出版されたのに、なぜかフランス語訳が出ないですねえ。

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2021.10.2──付記:今日になって気がついたのですが、このバルセロナでの催しはKosmopolisという大がかりなフェスで、以前もこのブログで紹介したことがあります。ここです
 ルー・リードとアミラ・ハス、そしてJMクッツェーの写真が並んでいますが、ブログを見た友人に、この並びはすごい!と驚かれたことがありました。2009年3月でした。あれから、14年あまりのときがすぎたわけです!

2023/09/07

「海外文学の森へ 63」リディア・デイヴィス『サミュエル・ジョンソンが怒っている』

東京新聞火曜日の夕刊に隔週で掲載されるリレーコラム「海外文学の森へ」が始まったのは2021年1月だった。早いもので、あれから2年半が過ぎて、すでに63回 。

 今回は2023年9月5日夕刊に、「アメリカ小説界の静かな巨人」と言われるリディア・デイヴィスについて書いた。岸本佐知子さんの翻訳で『ほとんど記憶のない女』『話の終わり』『分解する』『サミュエル・ジョンソンが怒っている』の順に、単行本として出版されたものが相次いで白水Uブックスに入った。今回取り上げた『サミュエル・ジョンソンが怒っている』は、なんといってもそのタイトルが不思議におかしくて、泣かせる。

 さらに、つい最近、4冊とも電子書籍化されたことも嬉しい。

********「海外文学の森へ 63」******

 リディア・デイヴィスの作品はどこから読み始めてもいい。そこが好きだ。

 この『サミュエル・ジョンソンが怒っている』は『話の終わり』『分解する』と立て続けに白水Uブックスに入った、デイヴィスの訳書四冊の最後にあたる。単行本は書架にあるけれど、寝転んで読める軽い形は大歓迎、とわたしは小躍りして喜んでいる。

『サミュエル・ジョンソンが怒っている』はとても風変わりな短編集だ。タイトルになった作品はたった一行──蘇格蘭(ルビ・スコットランド)には樹というものがまるでない──だけで、エエッと声をあげたくなる。断章とか短文を集めたような構成で、味の際立つ逸品がならぶオードブルプレートみたいなのだ。ワイングラス片手に読むとその味が冴える。電車のなかでワインなしで読んでも、もちろん美味しい。

 気分が煮詰まってくると手を伸ばし、はらりとページを開く。するといきなり実況中継ふうの物語が始まって、書き手の外と内の世界が絡まり、出来事や場面が刻々と変化する。クイっと入って一つ読む、気分がカラッとする、切なくてじわっとくる。奥深い感覚描写に、唸る。

 カップルのすれ違いを詳述する少し長めの「「古女房」と「仏頂面」」を読んだときは声をあげて笑ってしまった。日常の微細な心理をここまで書くか、と作家の覚悟がひしひしと伝わってきたのだ。

 リディア・デイヴィスの名前を知ったのは『ほとんど記憶のない女』が出た二〇〇五年だった。五年後の『話の終わり』でハマって、いまはなきTV番組「週刊ブックレビュー」でイチオシ本に選んだ。傑出した自己洞察とヒリヒリするような繊細な文章に驚いたのを覚えている。

 父は大学教授、母は作家。とても知的な環境で育ったデイヴィスは、フーコー、ブランショなどを英訳し、プルースト『スワン家のほうへ』やフローベール『ボヴァリー夫人』の新訳も手がけている。

 ルシア・ベルリンがアメリカ本国で再評価されるきっかけとなった『掃除婦のための手引き書』にも序文を寄せるデイヴィス。訳者、岸本佐知子さんの「アメリカ小説界の静かな巨人」という紹介に深くうなずいてしまった。

くぼたのぞみ(翻訳家、詩人)  


2023/08/09

渋谷で映画「サントメール ある被告」を観てきたのだ

 朝から雷が鳴って、ざざーっと雨が降り、いきなり青空に白い雲が浮かんだかと思うと、また一天にわかにかき曇り……というのがくり返される1日だった。

 でも行ってきたのだ。金輪際いくもんかと思っていた「渋谷」へ。宮下坂側のBunkamuraシネマで観てきたのだ。噂の映画「サントメール」を! とてもよくできた映画だった。映画館で映画を観るのは、7年ぶりだ。

 まず大学の講義で始まる。マルグリット・デュラスがカメラに収めた白黒の映像が流れる。髪を切られて丸坊主にされる女性たち。対独協力者のフランス女性たち。

 講義をするラマは、売り出し中の若い作家だ。彼女が北部の町サントメールヘ赴くのは、そこで開かれる裁判を傍聴するためで、被告は15ヶ月の赤ん坊を満潮の浜辺に置き去りにした(自分では育てられない赤ん坊を海に返してやった?)女子学生ロランス。セネガルからやってきて、完璧なフランス語を話すロランスは、幼いころから現地語であるウォロフ語を話すことを禁じられて育った優等生だ。親の期待が重たかったと語るロランス、父は法律を学ぶなら学費を出すと言ってくれたが、彼女は哲学を学ぼうとする。すると学費を打ち切られ、身を寄せていた叔母との関係もうまくいかなくなって、ある男性と暮らし始める。やがて妊娠、ひとりで出産することになり、そして赤ん坊を……ラマはこの裁判を元に新作を書く予定なのだ。

 実際に起きた事件の裁判記録を用いてシナリオが書かれ、この映画が制作されたという。監督はセネガル出身のアリス・ディオップ。

 裁判の過程で、何が起きたかが少しずつ明らかになっていくのだけれど、このやりとりが絶妙。俳優の選び方もいい。裁判官も、被告の弁護士もキレキレの、しかし、人間的な心を失わない女性として描かれている。黒人女性のラマとロランス、白人女性の裁判官と弁護士、彼女たちの表情の変化と無変化で、観るものの想像力が否応なく掻き立てられる。

 何度か傍聴に通ううちに、ラマはロランスの母親と知り合う。直感力の鋭いその母親に、ラマは妊娠していることを見抜かれる。自分の母親と感情的にすれ違う記憶が何度もラマの脳裏をよぎる。

 事件の背景に埋もれる事実を掘り起こすための「なぜ?」が全編にあふれているが、決して「説明」的にならない。むしろそう簡単に文化の差異や歴史の暴力が、人間と人間の関係(ここでは母と娘)におよぼすものを言語化できるわけがないのだ。なぜ? と観客も自問し、考えながら、積極的にコミットすることをこの映画は要求してくる。裁判の結果も出さない。最終弁論と裁判官のコメントだけで終わる。それでいて、観るものにはある納得が準備されていもいて、制作者が安易な結論を観客へ押し付けない演出がなされている。そこがこの映画の最良のポイントだと言えるだろう。

 ヨーロッパ言語では「説明不可能」なものを、ヨーロッパ言語を使いながら、そこに浮かび上がらせる手法。

 シナリオを書いたのが、かの、マリー・ンディアイだと知って、膝を打つ。

 最後の方で、いきなりニーナ・シモンの「Little Girl Blue」が流れ、おそらくダカールと思われる街並みが映し出される。ここで感情がグッと柔らかくほぐされ、ほろりとしそうになるのだけれど。ああ、そうだよな、最後はやっぱり母と娘の関係の、繋がりの、、、ちょっとだけほの明るい場面が挿入されて終わる。それでこれは記憶のハッピー・メンテナンスなんだな、と納得するのだ。

 途中、ホテルでラマがPCで観る映画のなかに、息子を溺愛する母親の映像が挿入されていて(どうやらモロッコかアルジェリアが舞台の映画)、その息子が弦楽器を奏でる夢想シーンがある。そこに流れるのが、三味線を弾きながら女性が歌う端唄か小唄のようなんだが、そこがなんとも「エキゾチック趣味で」おかしかった。

(追記:PCの映画はパゾリーニの『王女メディア』1969 だそうです! 学生のころ観たけどな、全然覚えてなかったよ、マリア・カラス!😅)


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2023.8.12──付記。上の感想は作品構成とか背景とか描かれ方とかを中心に書いたのですが、この映画は2組の移民の「母と娘」を炙り出す映画でもあるんですね。

また、57歳の白人男性が、自分の娘の結婚式のときロランスを赤ん坊ともどもホテルに追いやっておいて、家族には絶対に紹介しなかったことが描かれているが、彼が身分の不安定な若いセネガル人留学生を「人間として壊れるほど軽く扱った」ある種の記録映画のようでもある←ここ、次に細かく書いてみたい。

2023/07/24

なぜ、クッツェーは覇権英語に抵抗するのか

2018年1月、カルタヘナで開かれた文学祭でJMクッツェーが行ったスピーチ。なぜ、英語で書くクッツェーがその言語を自分の言語ではないと思ったか、 詩と言語の関係、世界を映し出す鏡としての言語、少数言語に対する英語ネイティヴのアロガントな態度なども含めて。備忘のためにここにシェアしておきます。

http://coetzeecollective.net/audio/jmc-hegemony-of-english.mp3

カルタヘナの文学祭のようすは、ここで詳しく報告しました。


2023/07/23

日本語訳『ポーランドの人』の書評が掲載されました

「山陰中央新報」と「北國新聞」に、拙者訳のJMクッツェー『ポーランドの人』 (白水社)の書評が掲載されました。

 twitter で記事の写真をシェアしてくださった方がいたので、ここでもシェアさせていただこうかな。この作品をしっかり読み込み、限られた字数内にポイントを過不足なく書き込む離れ技をやってのけたのは、吉田恭子さん! Merci beaucoup!

どうしても文字がぼやけます。くっきり読みたい方は、twitter で!↓

https://twitter.com/mayumi3141/status/1683011623978692609/photo/2

「山陰中央新報」のサイトはここです。(7/22)↓

https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/420902

「北國新聞」のサイトはこちら。(7/23)↓

https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1133119

2023/07/19

南アフリカ出身の文学研究者スー・コソーさんの書評

 まずシェアボタンのついている facebook や twitter でシェアして、つい後手後手にまわってしまうブログですが、 じつは後から検索をかけると、早く、確実に行き当たるのがこのブログだったりするので、やっぱりここに記録のために書いておきます。

the conversation の書評 

オーストラリア版の The Pole and other Stories がText Publishing から出版されたのは今月の初めだった。早速、書評があちこちに載った。じつに細やかな、痒いところに手が届きそうな読みで展開された書評が The Conversation というネット雑誌(?)に載った。書き手のSue Kossew さんは1990年代、南アフリカ文学にまつわる研究書にいつも名を連ねている人だったという記憶がある。モナシュ大学で教えていらしたようで、2014年にアデレードで開かれたJ.M.Coetzee: Traverses in the World に参加したとき、わたしもチラッとお会いして話をした。

 翌年2015年にイタリアのプラートで開かれたクッツェーと作品内に登場する女性をめぐるシンポジウムの主催者がモナシュ大学だった。そのこともまた、彼女の名前といっしょにわたしはしっかり記憶している。

 今回の書評は、The Pole と他の短篇について、個別に紹介し論じる内容で、クッツェーのファンだけでなく、クッツェー初心者にとっても、この本を読むための良い手引きになるだろう。

 書評ページの頭に犬の絵が出てくる。これがいい。このサイトにちょっとお借りすることにした。なぜ犬かというと、『モラルの話』では巻頭を飾った The Dog が今回の「短篇集」では最後に置かれているからで、その効果が抜群なのだ。今回の短篇集のような流れで読んでいくと、「犬」という短篇にはまた違った読みが可能で、動物と人間の生命との絡みで、ぐんと冴え渡る効果を生んでいるのだ。

 その橋渡しをしているのがひとつ前の短篇「The Hope/希望」なんだけれど、どういうことかはぜひ、10月に出るイギリス版で確認してほしい。

 今回の書評に見られる、「肉体が衰弱していくとき重要性が増してくるのは魂である」という読みは、キリスト教文化ならではの把握かもしれない。確かに。

2023/07/14

シドニー・モーニング・ヘラルドに掲載されたThe Pole and Other Stories の書評


シドニー・モーニング・ヘラルドに、英語版として世界で最初に出版されたJMクッツェーの最新作The Pole and Other Stories の書評が載りました。記事のタイトルは、"Is this the greatest living philosopher writing fiction?"(いま生きているもっとも偉大なフィクションを書く哲学者なのか?)評者はDoug Battersgy さん。

 シドニー・モーニング・ヘラルドの書評

ざっくり訳してみた以下の引用は、オーストラリア版の書籍中いちばん長い「The Pole=ポーランドの人」の驚くほど感動的なところへの評価です──翻訳できないことの悲劇、ことばにはその言語のネイティヴではない人間には永久に伝わらずに終わる意味の深さがある、という悲哀に満ちた感覚。

>The tragedy of untranslatability, the elegiac sense that words have depths of meaning forever lost to non-native speakers, is the most surprisingly moving thing about this book.

記録として。

2023/07/07

マドリードのセルバンテス文化センターを訪れるJMクッツェー


 マドリードのセルバンテス文化センターを訪れるJMクッツェー。

セルバンテス文化センターを訪れて、スペイン語でメッセージを読み上げる。読み上げた文章にサインしてボックスに収め(動画を見るともっと分厚いから、違うテクストかもしれないが)、鍵をかける習わしらしい。その鍵(915)を受け取って記念写真に収まる作家。なんだか嬉しそうだ。セルバンテスはクッツェーが最も尊敬する作家だと述べたらしい。
”J. M. Coetzee ha bromeado con que su presencia en la #CajadelasLetras es un «accidente», aunque pertenece a la tradición en español «en un sentido espiritual». Y afirma que aceptó la invitación porque le permite asociar su nombre con el de Cervantes, el escritor que más venera."