暑かった夏が終わり、秋の気配に喜びつつも、この一年間の怒涛のような時間からようやく抜け出せてホッとしすぎてしまったのか、先月は脱力のあまり投稿ゼロとあいなりました。気がつくと今日はもう11月です。
ガッツリ翻訳をやったあとや、昔読んだ本を書架の奥から引っ張り出して(自分の記憶を訂正し)引用しながら書いたりしたあとに、このエッセイ集を手に取って、はらりと開く。読みはじめると、肩の凝り、首の凝り、そして気持ちの凝りまでほぐれてくるんです。
この『水牛のように』は、毎月「水牛」のウェブサイトで更新される短めのエッセイをまとめた「日々のかけら」(あ、これ、前にも読んだかな)と、しっかりエッセイと(これは初めてかも、でもひょっとしてあそこで……)とが混じりあっていて、こちらの記憶も定かではなく、ふんわり混沌としてきます。日付はあっても年の記載がないのです。そしてそれが心地よい。効能は抜群! それがどういうことかは……ふふふふ、ふっ🌹
八巻美恵さんと、この世で初めて会ったのは、多分、1970年代の半ばで、わたしがまだヘロヘロOLをやっていた時代でした。知人が企画したコンサートを手伝ったときでしたが(たぶん八巻さんは覚えていないと思う)、80年代になって「水牛通信」に混ぜてもらってからは、断続的に会うようになって、わたしが「アフリカ」で忙しいころまた少し遠ざかり、落ち着いてきたころ復活して……という感じだったかな。
そして2014年に出した第四詩集『記憶のゆきを踏んで』を八巻さんに編集してもらったのでした。装丁は平野甲賀さん、発売はおなじころ出た、J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』の版元インスクリプト。
その後、藤本和子の本を復刊させるために集まった「塩を食う女たちの会」で飲み会を開くようになって3冊の復刊が成りましたが、八巻さんはその中心にいつもいた。ふわっと、重力のないような不思議な存在感を発揮して。
エッセイ集をはらりと開くと、そのあたかも「重力のないような」がたちどころに伝播して脳内に透明な膜をはり、独特な心地よさを醸成します。その不思議さには、分析なんかしちゃだめよ、ときっぱり言われているようなところがあって。。。ふむ。ただ、感じていたいような、月とか星とか花なんかもたくさん出てくるエッセイです、(あっ!そうか!)
帯は、斎藤真理子が書いた「読書感想文」から取られています。発行が平野公子の horobooks(hello@horobooks.net)、編集が賀内麻由子、装丁・本文デザインが吉良幸子、カバー画が木村さくら、という面々で、本に手を触れると紙からも指先にしっかり伝わってくる、とても素敵な本です。(敬称略)