2007/10/29

わたしの好きな本(1)『ハーレムの少女 ファティマ』


 ときどきこんな書評コラムもアップします。これまで書いたものが中心ですが、ずいぶんむかしのものも顔を見せます。へえ〜、そんな本があるんだ、と新鮮な気持ちで読んでくれる方がいることを願って…!
 まず第1回はファティマ・メルニーシー著/ラトクリフ川政祥子訳『ハーレムの少女 ファティマ』(未来社、1998年刊)。
 9年前に出たものですが、この本の中身はいまもって新しい!
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 モロッコの古都フェズを舞台にした、8歳の少女の目で見た女たちの日常生活の物語。そう書くと、なんとなくわかったような気になるかもしれない。
 でも、読み進むうちに、そんな思い込みは子気味よく裏切られる。
 むしろ、読み手である私たちのなかには、いまだにイスラム世界の内側、ベールに隠された暮らし、といったステロタイプなイメージとして、彼女たちを「未知の世界」に閉じ込めておきたい欲望が、意識されないまま眠っているのではないか。この本を読んでから、私はそんな疑問にとらわれている。
 過去百年にわたって、西欧キリスト教世界を通して見た世界観を否応なく学ばされてきた日本人にとって、これは新鮮な驚きや発見が随所にちりばめられている本だ。
「ハーレム」ということばひとつとっても、私たちが抱いているのは「権力を握った一人の男が多くの女性を囲っている後宮」といったイメージだけれど、そんな思い込みはさらりとくつがえされる。
 イスラム世界では、決しておろそかにされてはならないフドゥード(神聖な境界線)によって、多くの不自由を余儀なくされながらも、女たちは束縛の裏をかく術をみごとに発達させ、したたかに、賢明に生きてきたこと、そして、いまも生きていることが、少女の目を通して活写されていくのだ。
 なかでも私を爽快な思いにさせてくれたのは、主人公ファティマの母方の祖母、農場に住むヤースミーナだ。町中に住む女たちよりもずっと行動範囲が広くて、馬を乗りまわしたり、自然のなかで生き生きと暮らす場面が、じつに印象的。とりわけ、大勢の女たちが川べりで、競争しながら皿や鍋を洗う場面は圧巻。
 著者、ファティマ・メルニーシーは1940年生まれの、著名な社会学者で、モロッコ、フランス、アメリカで学び、海外で初めて博士号を取得したモロッコ女性だという。目からウロコの好著。
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付記:1998年10月初旬、共同通信社が配信したものに加筆しました。
(2001年9月以降、イスラム世界の情報はぐんと増えましたが、ごくふつうの人びとの暮らしが見えるものは、どうなのかしら?)

2007/10/28

チヌア・アチェベにマン・ブッカー国際賞


 「近代アフリカ文学の父」といわれるナイジェリアの作家、チヌア・アチェベ(Chinua Achebe)がこの6月にマン・ブッカー国際賞を受賞した。この賞は隔年に受賞者が発表され、個別の作品ではなくその作家の仕事全体にあたえられるもので、賞金は6万ポンド(約1400万円)。
 1958年に出版されたアチェベのデビュー作『Things Fall Apart/崩れゆく絆』はこれまで世界中で1000万部以上も売れた超ロングセラーだ。200ぺージほどの小説だが、アフリカ文学を知るためにも、植民地化による近代アフリカ社会の変遷を知るためにも、必読の書といっていい。70年代に邦訳が一度、出たようだが、現在は入手困難。ぜひ新訳で読みたいものだ。
 受賞後、アチェベはBBCに対して「アフリカ文学がやろうとしてきたのは、世界文学という概念の枠を押し広げることだった──そこにアフリカを含めること、アフリカは含まれていなかったわけだから」と述べた。この作家が『闇の奥』を書いたジョゼフ・コンラッドを「べらぼうな差別主義者」と呼んだことが長いあいだ、英文学者たちのあいだで物議をかもしてきたことを考えあわせると、エキゾチズムではないアフリカ文学が世界文学のなかに正当な位置を占めるためには、半世紀の道のりが必要だったということだろうか。「英文学」から「英語(圏)文学」へと視点の転換が進む時代に、現在76歳のこの作家の存在を評価せざるをえない時代になってきた、と考えていいのだろうか。

 若手作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ──アチェベとおなじイボ民族出身──がガーディアン紙に、尊敬する大作家の受賞を喜ぶコメントを寄せていた。彼女自身この7月に、ビアフラ戦争の内実を克明かつ人間的に描いた2作目長編『Half of a Yellow Sun/半分のぼった黄色い太陽』でオレンジ賞を受賞したばかり。

 ビアフラ戦争というのは1960年代末に、石油資源の利権をめぐってナイジェリアで起きた内戦で、その後もこの国はアフリカ諸国の例にもれず、「資源があるゆえの」政情不安定に悩まされている。
 しかし、豊かな口承文芸を背景に持つ、アフリカ最大の多民族国家であるナイジェリアはまた、南アフリカとならんで、多くの文学者を生み出してきた国でもある。しばらくは、ナイジェリアから目が離せない。
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付記:2007年8月28日付「北海道新聞」に掲載したコラムに加筆しました。

2007/10/19

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(5)

 思えば、この作家の笑顔の写真はそれほど多くはない。翌30日、「ベケットを見る8つの方法」と題した講演で、クッツェー氏は写真に残るベケットやカフカの眼差しは、凍りついたような視線、犬のような目、といったことばで語られることが多いが、イメージと実物には大きなズレがあるのではないかと疑問を投げかけた。
 カフカはよく「ミスフィット」という語とともに語られるが、じつはこの作家は保険会社につとめる優秀な社員で、写真の眼差しによって作り出され、流布しているパーソナリティとはちがい、同僚たちから尊敬されていたのだ、それにしても「fit=適合する」という語は、たった一音節ながら、なんと容赦ないことばだろうか、と。その前に延々とくり返された「サルとおぼしき生物=it と餌の入った箱の話」は、とどのつまり、「生き延びるための適応」を意味する、この「フィット」に繋がっていたのではないか、それに続く写真と眼差しの話も、冷たい、気難しい、人嫌い、といわれてきたクッツェー氏自身について暗に語っていたのではないか、とわたしは妙に納得した。この作家の境涯とも、じゅうぶん重なるように思えたからである。

 南アフリカ社会でアウトサイダーとして育ち、1960年のシャープビル事件のあとに故国を出る決心をし、大学卒業後にケープタウンを飛び出して行った先のロンドンでは、旧植民地生まれの部外者として歓迎されず、その後わたった米国からもヴィザの発給を停止されて、1971年に31歳で、アパルトヘイト体制の南アへ覚悟の帰国を余儀なくされたクッツェー氏は、以来、検閲制度をかいくぐりながら密度の高い小説作品をつぎつぎと世界に送り出してきた。解放から5年後、息子の死からちょうど10年後に、ようやく、のびやかな筆致で書いた『恥辱』を発表したが、アパルトヘイト撤廃後の南ア社会で生きる人たちを容赦なく描いたこの傑作は、翌年5月「人種差別的だ」として政府与党と人権委員会から公的に批判されることになる。
 2002年、クッツェー氏はついに南アを離れた。(作家自身は、あるインタビューで「祖国を出るのは離婚に似て内密なものだ」として、その理由をはっきりとは語っていないが、南アを離れたことは『恥辱』をめぐる批判や、その後の出来事と無関係だとは思えない。)(付記/2015.11.13:その後、J・C・カンネメイヤーの伝記などによれば、クッツェーがオーストラリアへ移住する計画を立て始めたのは1990年代の早い時期で、1999年の時点ですでにその計画はかなり進んでいた。したがって『恥辱』をめぐる騒動はたんなる偶然の一致だったことが明らかになっている。)そして03年10月にノーベル文学賞を受賞し、06年3月にはオーストラリアの市民権を得るにいたった。

 顔写真には撮影者と被写体となる人の関係がはっきり出る。9月29日の初会見の最後にわたしが撮った写真も、いざ現像してみると、ほおのあたりは笑っているのに、深い悲しみをたたえたような目もとは、とても厳しい。
 だがしかし、である。翌日、2時間半におよぶ講演が終わって、サインをもらう読者の長蛇の列からようやく解放されたクッツェー氏に、挨拶のために近づいて行ったときのことだ。
 「こんばんわ」といって手を差し出すと、一瞬「誰だ?」と相手を射すくめるように凝視したあと、その顔にこぼれんばかりの、破顔の笑みが浮かんだのだ。鋭く光る目の下には、これまで頑固に、厳しく、自分を律して生き抜いてきたことを思わせる、無数の皺が刻まれていた。
 そのときわたしは一瞬のうちに理解した。彼が見せるこの微笑みは、やがてわたしの記憶のなかで、飴色の光を放ちはじめることになるだろう、と。(了)☆☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/18

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(4)

 確かめておきたいことがひとつあった。作家のミドルネーム「M」をめぐる欧米メディアの対応に関するものだ。ある新聞にすでに書いたことだが、ここでも再度書いておきたいと思う。
 作家の名前はジョン・マクスウェル・クッツェーで、作品にはデビューから一貫してJ・M・クッツェーと記されてきた。しかし欧米の主要メディアはこれを、ジョン・マイケル・クッツェーと勝手に読み替えてきた。米のニューヨークタイムズ紙も、英のタイムズ紙やガーディアン紙も、仏のルモンド紙も。はては文学事典の類いまで。いくつかの根拠から「マクスウェル」が正しいことはわかっていた。
 1999年の『恥辱』で2度目のブッカー賞を受賞したとき、長年購読してきた南アの新聞「メール&ガーディアン」にも「マクスウェル」とあったので、やはり、とうなずいた記憶がある。しかし、なぜ欧米のメディアが訂正しないのか、疑念は晴れなかった。そこへ2003年10月3日のノーベル賞受賞記事内に、米のニューヨークタイムズと英のガーディアンが記者の署名入りで「生まれたときはマイケルだったが、それをマクスウェルに変えた」と書いた。この辻褄合わせを迂闊にも、わたしは真に受けてしまったのだ。
 「生まれたときからマクスウェルで、名前を変えたことはない」と彼が、静かに、確固たる口調で語るのを聞いたとき、あれは確かめもせずに作り上げた記事だったのだ、とそれを鵜呑みにした自分が恥ずかしかった。
 さらに「フランス語訳の『少年時代』でも裏表紙にジョン・マイケル・クッツェーと書いてありましたが」とたたみかけると、氏からは「彼らはジャン・マリー・クッツェーとまでいったんです!」ということばが返ってきた。大きな声ではなかったけれど、抑えた語気は烈しかった。
 なぜこういうことになるのか。このようなズレがなぜ起きるのか。ずっと考えてきて思い至ったのは、この作家のスタンスはある意味で、西側メディア、とりわけ欧米諸国のメディアが流す情報と事実との差を可視化することに貢献している、ということだった。ズレはそのまま放置する。一方的な決めつけをして恥じないのは、気づかなければならないのは、メディア自身なのだ、と。これは『マイケル・K』の第2章で医者が主人公の名前を誤って「マイケルズ」と呼びつづけたり、『フォー』で舌を切られて発語できないフライデーのある動作に、主人公が勝手な意味づけを行ったり、といった場面を書き込むことで、「名づけ」をめぐる権力構造を可視化させる手法にも通底する。

 話は音楽のことや彼が訳したオランダの詩人たちの作品、あるいはその訳詩集に彼が書いたオランダの国民性のことなどにおよび、ふたたび日本語の翻訳書へともどっていった。日本では一般に翻訳書には「訳者あとがき」というスペースがあることなど、作家にとっては耳新しい話だったようだ。
 そして「クネーネの叙事詩の翻訳にはとても苦労しました。その翻訳の最中に『マイケル・K』を読んだのですが、それがオアシスのように感じられて」というわたしのことばに、作家は「ふふっ」と笑い声をもらした。(つづく)☆☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/17

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(3)

 『鉄の時代』が発表された1990年は、南アフリカにとってはとても重要な年である。アパルトヘイト体制がはっきりと崩れていく、激動の年だったからだ。兆しはすでに前年にあらわれていた。89年1月中旬に当時のボタ大統領が脳溢血で倒れ(このニュースをわたしは、ジンバブエの首都のホテルの部屋にいて偶然つけたテレビで知った)、その後デクラークが大統領になって、10月にウォルター・シスルーをはじめとする7人の政治囚が解放され、いやがうえにも期待感はたかまっていった。翌90年2月2日にそれまで非合法だった解放組織が合法化され、ネルソン・マンデラが27年におよぶ拘禁ののち、同月11日に解放されて、人びとを苦しめつづけたアパルトヘイト体制が崩壊するという予感と、その興奮は頂点に達した。
 『鉄の時代』が書かれた86年から89年(作品末尾には、この作家にはめずらしく「1986─89」と記されている)という時期は、再度発動された非常事態宣言のもとで、一連の激変へいたる事実が着々と準備されていった時期とほぼ重なる。扉をめくると、作家がこの作品をささげた人たち(両親と息子)のイニシャルと生没年が刻まれている。こういったことからも『鉄の時代』という作品が、この作家にとって、特別の意味を含みもつ作品であることが推察できる。

 カフェでの会見は、沈黙とことばが拮抗する濃密な時間だった。わたしはほかにもいくつかの小道具を持参した。寡黙な作家との会話が行き詰まったときのための、話のネタである。まずは自分自身の三人称で書かれたバイオグラフィー。そこに並んだマジシ・クネーネの名前を見て、彼は質問してきた。「クネーネの叙事詩はズールー語から訳したのですか?」(答「いいえ、英語からです」)「彼が亡くなったのは知っていますか?」(答「ええ、8月にメール&ガーディアンの記事で知りました」)
 ベッシー・ヘッド、マリーズ・コンデ、エドウィージ・ダンティカといった名前に、「アフリカ系の作家が多いですね」と述べたあと、話はアフリカ出身の若手作家のことになった。翻訳中のナイジェリア出身の若手作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの名前を見て、「この作家のことはよく知っていますよ」といった。それもそのはず、アディーチェが短編「半分のぼった黄色い大陽」で受賞したPEN/デイヴィッド・T・K・ウォン賞の審査員の1人は、ほかならぬクッツェー氏だったのだ。それから何かいいたそうに、しかし、いいだせないような、どこかいぶかし気な表情を見せた。ああ、そうか、とわたしは察した。近刊と書かれたアディーチェ短編集「Collected Stories」(註/2007年9月に『アメリカにいる、きみ』として刊行)にはオリジナルがないのだ。「短編集はまだ英語版は出ていません。わたしが作品を選び、編集し、それについて著者から許諾をえました」というと、彼はホッとした表情を見せながら、大きくうなずき「彼女の第一小説の名前は、ええと…」と口ごもった。ほぼ同時に思い出した両者の声が、ユニゾンであたりに響いた。
 「パープル・ハイビスカス!」(つづく)☆☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/16

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(2)

 翻訳をするとき、あるいは作家論や作品論を書くとき、テキストとしてどの版を使うかはとても重要なことだ。クッツェー氏の作品の場合、いつも最初に出るセッカー&ウォーバーグ社版とその少しあとに出るヴァイキング版では作りが微妙に違っていることがある。ハードカバーから1年ほどあとに出るペーパーバックでは、英国と米国の読者層の違いを考慮してか、表紙に書かれる推薦文やうたい文句などは、当然ながらまったく違う。だからこれは要注意。
 たとえばいまわたしが訳している『鉄の時代/Age of Iron』の場合、ペンギン版のペーパーバックの表紙には Novel という文字があるけれど、これはオリジナルのセッカー&ウォーバーグ社版ハードカバーにもヴィンテージ版のペーパーバックにもない。つまり出版社がその作品の「何を前面に出して売るか」ということで、本の作り方が違ってくるのだ。そういった細かな違いに著者自身がどこまで関与しているか、これは定かではない。テキストクリティックにあたっては、テキストそのものの信頼性、つまり書籍の制作のプロセスにも十分に考慮する必要がある。書籍として出版される前にエージェント経由で送られてくるタイプスクリプトを、翻訳テキストとしてそのまま使うのはさらに危険だ。固有名詞の変更など、テキスト上の微妙な変化がかならずといっていいほどあるからだ。

 メールでのやりとりが終わった6月初旬、クッツェー氏が来日するらしい、というニュースが飛び込んできた。一瞬、あわてた。18年前に彼の作品を初めて読んでから、そのうちいつか、一度は会えるといいなあ、と夢想してきた作家が来日する! それも数カ月後に! というのだから。まだ最終的に決まったわけではない、という。だれに尋ねても「来るらしい」とか「来る予定」という情報以外、詳細はわからない。しばらくしてから、ならば、と直接ご本人に確かめた。ちょうど『鉄の時代』の日本での翻訳出版が決まった直後だったせいもあり、幸いにもアポイントメントがとれた。

 会見には、むかし拙訳『マイケル・K』を送ったときに作家から届いた最初の手紙を持参した。日付は1991年4月。1989年暮れに『鉄の時代』をタイプスクリプトで読んだのち、ある出版社からの要請でシノプシスを作り、翻訳の計画を進めていると伝えた手紙への、作家からのお礼の手紙だった。
 遠いむかしに書いた自分の手紙を見て「ずいぶん早くから『鉄の時代』を翻訳する努力をしてくれていたのですね」とクッツェー氏はいった。たしかに。15年以上も前のことなのだ。だが、当時いくつかの出版社は、リアリズム小説だという理由で最終的にはこの作品を歓迎しなかった。なんでもかんでもマジックリアリズムで片づけられ、ポストモダンなることばがやたら流行ったころのことである。この作家がいわゆる「リアリズム」の手法で書いた作品は『恥辱/Disgrace』が最初ではなかった。翻訳して紹介されなかっただけなのだ。逆にいうとそれは『鉄の時代』という作品が日本で翻訳される機が熟するのに、16年の歳月が必要だったということなのかもしれない。(つづく)☆☆
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付記:MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。

2007/10/15

クッツェーの微笑み、あるいはテキストの落とし穴(1)

今日から5回に分けて、J・M・クッツェー氏との会見記を掲載します。(MWENGE no.37に載せた文章に加筆したものです。)
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 テーブルのうえの白い紅茶ポットにむかって腕がすうっと伸びてきて、人差し指が、ポットの横の砂時計をピンとはじいた。中央が大きくくびれた透明なガラス容器のなかで、ショッキングピンクの砂が音もなく落ちている。「何分か待たなければなりませんね」そういって、その人はふっと表情をゆるめた。
 初対面のはりつめた緊張感に、雰囲気を少しでもなごませるためだったのだろうか。それとも、かつてはまちがいなく、とびきり凝り性の工作少年だった人が、この種の機器を目にするとき、思わず見せる仕草だったのだろうか。明るい光にみちたカフェで、そんなふうに会話は始まり、時間は夢のようにすぎていった。
 
 2006年9月29日、約束どおり午前11時きっかりに、ホテルのロビーに痩身のシルエットが浮かんだ。早稲田大学で開催される「サミュエル・ベケット生誕百周年シンポジウム」の特別ゲストとして招かれ、前夜、成田に到着したばかりのJ・M・クッツェー氏は、ざっくりしたチャコールグレーの上着にボタンダウンの白いシャツ、ノーネクタイという出で立ちであらわれた。隅の椅子に腰かけていたわたしが立ちあがると、彼は急ぎ足で近づいてきた。初めて聞く声は少しかすれ気味で、翌日の2時間あまりの講演のときも、その声はやっぱり少しかすれていた。
 床から天井までガラス張りになった中庭にむかって、ゆったりとした椅子に腰を降ろし、彼はオレンジジュースを注文した。紅茶を注文したのはわたしだ。ベジタリアンの彼はアルコール類を飲まないばかりか、紅茶や珈琲といった嗜好品も摂らない、というのはあとから聞いた話で、そのときは「ヴィーガン(動物性の食品はいっさい食べないベジタリアン)ですか?」という問いに「いいえ、ただのベジタリアンです。乳製品で栄養を摂りますから」と彼は答えた。

 メールのやりとりが始まったのは、拙訳『マイケル・K』(ちくま文庫)の全面改訳版のゲラ読みが最終段階に入ったときだった。セッカー&ウォーバーグ社版ハードカバーにある第2部の8行ほどが、新しいヴィンテージ版ペンギン版のペーパーバックには見当たらなかったのだ。これは作家が削除したのか、それともたんなる脱落なのか。確かめる手紙をエージェント経由で出すと、即座に作家から直接メールが返ってきた。答えは作者も気づいていなかった「脱落」。「信頼すべきテキストはセッカー&ウォーバーグ社版のハードカバー(初版)のみです」というのが返事の文面だった。ちなみに脱落がみられるのは、次の箇所(ちくま文庫版、p239の9〜13行目)にあたるオリジナル英文である。

 「国家はマイケルズのような土を掘り返す者たちの背中に乗っているんだ。国家は彼らがあくせく働いて生産したものを貪り食い、そのお返しに彼らの背中に糞を垂れる。だが、国家がマイケルズに番号スタンプを押して丸飲みにしても、時間の無駄だ。マイケルズは国家の腹のなかを未消化のまま通過してしまった。学校や孤児院から出たときとおなじように、キャンプからも無傷で抜け出してしまったのだから。」

 この作品について書かれた評によく引用される箇所である。英語で出まわっているテキスト類の場合、日本の慣例のように、版を重ねるごとに作者や訳者が訂正を入れたりすることはあまりない。クッツェー氏の場合も、ペーパーバックになるときに、いちいちゲラ刷りに目を通すことはないのだという。メールには「この件について注意を喚起してくれてありがとう」というコメントが書き添えられていた。(つづく)☆

2007/10/14

民族的詩人、マジシ・クネーネ逝く


「北海道新聞 2007.1.9 夕刊」コラムに、こんな記事を書きました。(掲載版に少し補足してあります。)
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 2006年8月12日、マジシ・クネーネが他界した。1970年の初来日と、80年代初めの2度の来日で、知る人ぞ知るズールー民族の大詩人だ。20余年の亡命生活を終えて、南アフリカに帰国したのが93年。享年76歳だった。
 初来日の目的は解放組織の活動資金調達だったという。70年当時、南ア国内は厳しいアパルトヘイト(人種隔離)政策のもとで、解放運動は壊滅的状況に追いやられていた。94年の解放で政府与党となるANC(アフリカ民族会議)も当時は非合法組織で、クネーネはロンドンを拠点とする財務担当として初来日したのだ。思うように資金調達がかなわず、離日するとき「日本の繁栄はわれわれの血によって贖われている」と言い残して、当時の若い支援者たちに「クネーネ・ショック」をあたえた話は有名である。

 詩人の第一義的な仕事は、民族の社会的価値観や哲学的概念を教え、伝えることにあるとするクネーネは、ズールー語で書いた作品をみずから英訳した。その一冊を訳してみないかと声をかけられたことがきっかけで、私は南ア文学のさまざまな作品と出会い、この国の政治情勢の変転や、文学者をとりまく環境の激変を見ることになった。だから訃報に接したときは、この20年間の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎった。

 民族の創世を物語る長大な叙事詩『アフリカ創世の神話』(人文書院、1992、共訳)との格闘をはじめたのは86年のこと。だが、南アの事情に疎かった私も、原著の献辞にマンゴスツ・ブテレジの名をみつけたときは、さすがに放っておけない疑問を感じた。79年にANCを離れてから、ズールー民族組織インカタの長として、ことあるごとにANCと血で血を洗う凄惨な権力闘争(西側メディアは「部族抗争」と報じた)を繰り広げていた人物、それがブテレジだったのだ。(下欄の付記参照)

 叙事詩の翻訳は遅々として進まず、なじみのない哲学、宗教、文化の概念は、部外者などにそう簡単にわかってたまるか、とばかりに分厚い壁として立ちはだかった。なかでも、いささか辟易とした、その誇り高き民族主義は、西欧植民地主義に対抗する強力な精神基盤ではあったものの、皮肉にも、人種間の和解と諸民族の融合をうたう新生南アの国家概念とは、際立った対比を見せることになった。
 まことにアフリカ、いや世界は、一筋縄ではいかない。

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付記:
 後に、当時のアパルトヘイト政権が「部族抗争」を(国外向けに)演出するため、インカタに資金を渡していたことが発覚して、南ア国内で大きな問題になっていたことを思い出します。

2007/10/08

鉄の時代/Age of Iron

 現在、南アフリカ出身の作家、J.M.クッツェーが1990年に発表した小説『鉄の時代/Age of Iron』を訳しています。クッツェー作品の翻訳は、本邦初訳の『マイケル・K』(1989年、筑摩書房)からはじまり、『少年時代』(1999年、みすず書房)についで三冊目──『マイケル・K』については全面改訳版が昨年8月、ちくま文庫に入りました。
 昨年9月にクッツェー氏が初来日したとき、実際にお目にかかっていろいろお話をすることができたためか、作品に登場する人物の声がよりいっそう、くっきりと聞こえてくるようになりました。翻訳をする者にとって、これはとても大きな助けになります。