2014/05/22

遠くでリラの花が咲く季節に

 朝起きたら、ふんわり晴れのお天気が、いまは青い空をところどころ残しながら雲が広がり、曇天になってきた。おや、雨! 降ってきましたね。雷鳴まで聞こえる。

 昨日、クッツェーの『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』(インスクリプト近刊)の「解説、年譜、訳者あとがき」の3校を速達で郵送して、完全脱力。これで訳者としての仕事は99%が終った。残るは送ったゲラの最後の確認と、著訳者略歴、カバーなどに入る写真のキャプションをチェックするだけ。

 4冊目の詩集『記憶のゆきを踏んで』(水牛/インスクリプト)を校了したという知らせも届いた。嬉しい。念願の三部作と詩集の同時発売だ。

 ここまでくる道のりは長かったのか、そうではないのか、いまとなってはよく分からない。なにしろそもそものスタートは1997年なのだから。
 クッツェー三部作はタイトルを決めるまでが大変だった。あれこれアイディアを出し、議論をし、最後の最後までなかなか決まらず、ああでもない、こうでもない、と悩みに悩んで・・・それでも、結果はごらんの通り。なにを議論したのか定かではないような、あっさりしたタイトルになった・・・ように見えるところが肝(笑)!

 梅雨に入るにはまだ早い。日一日と緑が濃さを増していく、大好きな東京の初夏に作業が終ったのは幸運だった。北海道ではリラの花が咲いているころだ。樹影が目に入るまえから、ふっと匂いが流れてくる、あの薄紫色の小花たち。家までの一本道を、だんだん匂いが近づいてくるのを確かめながら歩いた、あのころ。家に入る小径をまがると圧倒的な芳香に包まれた、あのころ。11歳から7年間住んだ家の前庭には、2本のリラの灌木が植わっていた。父が好きだったのだろうか、それとも母が好きな木だったのだろうか。ふたりとも逝ってしまったいまとなっては確かめようもない。

「リラ」という呼び名は、たしか、東京にきてから知った名前ではなかったか。北海道ではライラックと呼んでいたのだ。フランス語の呼称を知ったのは、いま思えばじつに「分かりやすい」単純な理由でフランス語を学ぶ学科を選び、そこへ入ってしまったからだ。それが正解だったかどうか、これまた、いまだによく分からない。その出来事から出発した、というだけのこと。

 東京に出てから、なにが恋しいと思ったかとえいば、リラの花の香りほど恋しかったものはない。最初の娘が生まれたとき、ついに、この花の名前をつけてしまったくらいなのだから。そんな思いつきが、名前をつけられた当人に、その後どんな影響をおよぼすことになるかなんて、とんと無頓着な30歳の母親の単線的なアイディアだった! わたし自身の名前もまた、ある意味、それと似たような道をたどってきたような気もするけれど。親なんて・・・(爆)。

 と、こうして書いているうちに、しのつく雨になり、その雨がやんで陽が差してきた。遠雷はまだ聞こえるが、雨に洗われた樹木がまぶしい。遠く南アフリカのカルーとジョン・クッツェーの家族との関係を考えながら、北海道のリラの花に思いをはせる。

2014/05/20

映画「半分のぼった黄色い太陽」の予告編



合州国ではすでに上映されているようですが、ナイジェリアでは、なんと、上映が無期限延期となったままです。女生徒誘拐事件が解決されるまでは、無理なのでしょうか。

 日本で上映されるのはいつなんだろなあ。

2014/05/19

ニンゲンは行儀よくしなければ、地上では動物たちの客なんだから/クッツェー

facebook を毎日のようにのぞいていて、ほとんどアディクトめいたようすになってきたことに、われながら驚く。そのせいか、ブログを書く回数が減ってきたような気がする。これはまずい。

facebook はすぐに誰かの反応があるので面白い反面、そこに書き込んだことがどんどん下の方に落ちていき、またたくまに視界から消える。自分のタイムラインにシェアしても、数カ月もたつと取り出すのさえ面倒になる。情報の断片を、これは前に読んだことと関連していると思って、以前の情報を検索しようとしてもうまく辿り着けない。つまり、情報は「その場限り」のはかない生命となりやすいのだ。

 時間をかけてじっくりやる仕事や作業にはまったくもって向いていない。ただの「反応」の山であって「応答」にはなりにくい。情報発信には役立ち、相互作用も組み込まれているから「広場」的な役割もはたしているが、それが発信者のほとんど独りよがりともいえる書き込みや、つぶやきが中心になってしまうとつまらない。

 池の水面に落とされた小石の波紋。その波紋をゆっくり読み取る作業はあまり重要視されない。これは「文学」とは対極の流れ方かもしれない、facebook に流されないために、いま一度、ブログに戻ろうと思う。


先日はこんな書き込みを facebook にした。再度ここにペーストしておく。

When a journalist ・・・asked why he should want to help animals, he gave sharp, humorous reply:  "They were here on earth before we were.  We are their guest.  I'd like to persuade human beings to behave like good guests." ──J.M. Coetzee: A life in Writing by J. C. Kannemeyer p591

あるジャーナリストがクッツェーに、なぜ動物を助けたいと思うのか、と訊ねると、彼はきっぱりと、ユーモラスにこう答えた。「動物たちは地球上にわれわれが来る前からいた。われわれは動物の客なんだ。わたしは人間に行儀の良い客として振る舞えと説得したい」──J. C. カンネメイヤーの『伝記』より

けだし名言である。

さて、クッツェー自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』(インスクリプト近刊)の作業も、98%が終った。あと一息だ。

2014/05/18

さわやかな五月の午後に


 昨日は風かおる五月の空を見ながら、南アフリカ大使公邸で開かれた催しに行った。

日本での反アパルトヘイト運動を記憶、記録するための催しといっていいだろうか。いまひとつ貴重な経験だったのは、日本と南アフリカのグラスルーツ的な繋がりをつくる努力をしてきた若い人たちの声が聞けたことだ。

 会場にはアパルトヘイト白人政権下の南アフリカ時代から縁の深い外務省や、経済界の面々もいたようだが、もちろん面識がないからわたしにはわからない。わかるのは、かつて日本で反パルトヘイト運動をやった広い意味での仲間たちだ。それについては昨年暮れに一度書いた。

 さわやかな五月の風に吹かれて、これで訪れるのが三度目になる、南ア大使公邸の庭でいただく白ワインのおいしかったこと! ズールー民族の出身だという大柄なペコ大使の笑顔がなかなかすてきだった。

 その場でもらったペーパーのなかに「日本で出版された反アパルトヘイト関連書籍」のリストがあって、そこに、ゾーイ・ウィカムの『デイヴィッドの物語』が入っていることにいまごろ気がついた。なんと!

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時事通信でもう記事になりました。


PS: 肝腎なことを書き忘れました。この催しは、南アフリカ民主化20周年と、日本と南アの人々の連帯と協力の50周年を記念したものでした。ほら、民主化というのは1994年のアパルトヘイトからの解放のことで、撤廃は1991年ではないのですよ。くれぐれも、お間違えのないように!

2014/05/04

クッツェー:草庵に暫く居ては打ち破り、明日はモンテビデオ

草庵に暫く居ては打ち破り

先月末はブエノスアイレスにポール・オースターとあらわれて、往復書簡集から読んだりしていたクッツェーさんですが、明日はウルグアイのモンテビデオで「個人ライブラリー」について話す予定だとか。
 このところ南アメリカの国々を集中的にめぐっているようです。次はどこに行くのだろう?


 さてさて、もうすぐクッツェーの自伝的三部作の拙訳が出ます。初めて紹介する作品をふたつも含む三部作です。予定では680ページ。タイトルは:

『サマータイム、青年時代、少年時代 ── 辺境からの三つの〈自伝〉』


 本文はもうあがりました。なんとしても5月末には、という意気込みで、いま解説と年譜など最後の見直しをしています。写真がたくさん入りますよ! インスクリプト刊。
 
 今日は五月晴れの朝でしたが、また風が出てきて、なんだか風邪がぶりかえして、家族との外出を取り止めました。窓からの眺め、躑躅がとてもきれい。ハナミズキも白い花を誇らしげに咲かせている。

 それにしても、クッツェーさん、6月にはイギリスのオクスフォードやノリッジにあらわれる予定だというので、このままずっと旅をつづけるのでしょうか。いまや、旅こそ人生、という感じですね。それでつい思い出してしまったのですよ、かの有名な芭蕉の句を。

 草庵に暫く居ては打ち破り  


2014/05/01

歌曲/ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』から生まれた曲

ジュノ・ディアスの短編集『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳/新潮社)のエピグラフに出てくるサンドラ・シスネロスの詩「One Last Song for Richard」に曲がつきました。なんと!
 
 facebook で作者のジュノ・ディアスさんがアップしていて知りました。作曲したのはリチャード-リカルド・ハラミジョさん。こんな曲です。驚きです。



2014/04/29

ポールとジョンの朗読 in ブエノスアイレス

4月末にチリからアルゼンチンへ行き、ブックフェアで朗読をした2人、ポール・オースターとジョン・クッツェー。ネット上で読める記事はたいがいスペイン語ですので──当然ながら──よく分からない/涙。

ここではせめて、2人の写真をアップします。スペイン語が得意な方は、ぜひ記事を読んで、面白いことが書いてあったらどこかにアップしてください。

クッツェーのめずらしいインタビュー記事とか。チリの軍政下での検閲制度のもとで文学者たちがどう書いたかとか。








San Martin Univ. で2人が名誉博士号を授与されたとのこと。クッツェーはこのとき Diary of a Bad Year から朗読しました。詳しい記事はこちらへ。

2014/04/27

翻訳者泣かせの南アフリカ英語──その3

「その2で kaffir」について書いたのが2010年7月だったから、もう4年近く前だ。さて、今回は「sjanbok」という語について。西成彦さんが南アフリカのユダヤ系作家フェルドマンの短編をイディッシュ語から訳しているのを読んで、はたと気づいた。あら。

「sjanbok」という語を初めて見たのがいつだったかは思い出せない。反アパルトヘイト運動に多少なりとも関わりはじめたころだから、1980年代末だろうか。そのころ南アフリカから出てくる情報のほとんどは英語でわたしのところへやってきた。アフリカーンス語も部分的に含まれていたが、それを理解する耳も目も知識もわたしにはなかった。アフリカーンス語の会話や語彙を調べなければと思ったのは88年か89年、『マイケル・K』を訳しているときで、それもマイケルを虐待する警察署長のことばだったり、農場主の名前だったり。

 アフリカーンス語については最初から専門家のS氏にいろいろ教えていただいた。後年、『鉄の時代』のときもお世話になった。クッツェー氏から「大変正確です」とおすみつきをいただいたくらいだ。だが、80年代末は、いちいち語源までさかのぼって調べたりすることはなかった。「英語」でなんでも済ませてしまう、あのころの「偏った」姿勢がどこからくるものだったか、あらためて、立ち止まって考えざるをえない。

 この、sjanbok は「鞭」という意味だ。サイやカバの皮から作られた、長くて細い鞭だ(スチール製もあるらしい)。アパルトヘイト政策の末端機関=警察がデモ隊を追い散らしたり、懲らしめたりするために使われる、いわば「アパルトヘイトのシンボル的存在」として英語風に「スジャンボク」と周囲の人たちは読んでいた。
 周囲の人たち、というのは、反アパ活動に関わっていた人たちという意味だ。辞書を調べれば、そのときだって、そうじゃないということは分かったはずなのに「現地音」で表記しなければいけないと主張する人はいなかった。いたかもしれない、ひょっとすると・・・。だが、その声は大きくはなかった。なんとなく大声を出せない雰囲気があった。どうでもいい、と言われそうだった。それはなぜか。いま思えば、ここには見逃すことのできない、ある種の「傾向」と「沈黙」が読み取れるのだ。それはなにか? クッツェーの自伝的三部作を訳了したいま、そのことが、ある自責の念として思い出される。

 この sjanbok は「シャンボク」と発音される。「j」はオランダ語/アフリカーンス語などでは濁音にはならない。たとえば、Jan なら「ヤン」となる。shambok とも sambok とも表記されるこの語の語源はマレー語 tjambok、ペルシア語やウルドゥ語の chabuk らしい。つまり歴史は古い。植民地社会を支えた「奴隷制度」と分ちがたく結びついているのだ。
 最初はおそらく野外や農場で使われたのだろう。反抗する奴隷を鞭打ち、死なせたりしても、法律的には罪を問われない時代からあった用具だ。それが反アパルトヘイト運動のなかで、暴力と支配を実行する警察の道具のシンボルとなった。そのように伝わってきた、「英語」で。

 アフリカーンス語はいわばアパルトヘイト政策を実施する為政者の言語と考えられた。無視していい、考慮しなくていい、とされなかったか? 1976年のソウェト蜂起が、アフリカーンス語で高校の授業をやろうとした政府に対して「ノー!」をつきつけた高校生の運動だったことも手伝った。「英語=反アパルトヘイト/アフリカーンス語=アパルトヘイト」といった図式的な理解が間違いなくあのころはあったのだ。それはある意味、避けられない「理解+心情」であったかもしれない。

 しかし、である。反アパルトヘイトの週刊新聞がアフリカーンス語で出たと知ったのはいつだっただろう。それは南アフリカでは大きな事件だったのではないか。いわゆる「カラード」の人が多い町アウツホールンで反アパルトヘイトの運動が立ち上がったと報じられたのはいつだっただろう。その意味を、もう一度、考える。図式的な理解は外部から見れば分かりやすい。「運動」はある意味つねに分かりやすくなければならない。だが、ここには落とし穴もある。一人ひとりの人間として見ることはなく、いつも考えや志向によって人を分類し、人を集団として見てしまうからだ。その先に待っているのは、シングルストーリー、ステレオタイプ。
 
人をあくまで個人として見る、個人として人と向き合う、その姿勢を崩さないためには、強靭な、自律的な思想が必要だ。文学はそのためにこそあるのだ。クッツェー作品から徹底して学んできたのはそのことだったのではないか。
 

2014/04/26

ゲラのあいまに蕗を煮る/クッツェーは南アメリカを旅

今日はゲラとゲラのあいまの束の間の休日。昨日、クッツェー三部作の詳細な年譜をメールで送って、ようやくこれで、三作分の本文、かなり長い解説、詳しい年譜、著訳書リスト、写真キャプション、著訳者略歴などなど、本に必要な原稿がすべてそろった。

ジョン・クッツェーご本人はいまポール・オースターと南アメリカにいるらしい。先日はチリのサンチアゴにあらわれ、数日後はアルゼンチンのブエノスアイレスに姿を見せるという。6月にはふたたびノリッジ文学祭にも参加予定だというから、今年もまた、世界中を飛びまわっているようだ。

 そのクッツェーの自伝的三部作、ここまでたどりつくのに随分時間がかかった。でも嬉しいことに、大勢の方々の助力、協力をえることができたし、幸運なタイミングというのもあったかもしれない。でも、タイミングといえば、この企画が始まった直後にこの群島を襲った災害、災厄もあった。そして、いまや全世界を見舞いつつある不運も。
 
 でも今日は、朝から晴れて、ひさびさのまるごとの休日。どう使おうか、わくわくした。まず若い光があふれる午前に蕗を採ってきた。さっと湯がいて皮を取り、薄いだし汁で煮物にした。いまの蕗は皮を剥くと、なんだか頼りないほど細くなるけれど、あくも少なく美味しい。春まっさかりの味覚だ。

 午後はやっぱり風が起きた。ひゅうひゅう唸る4月の風は特有の黒っぽい埃を運んでくる。この風、吹きながら憂いもまた運びさってくれるといいのだけれど。

 この季節、新タマネギや春キャベツが美味しいときでもあって、キャベツ狂いでキャベツばかり食べている人もいるらしい。わが家でもスライスした新タマネギを軽く天日干しにして瓶に入れ蜂蜜酢を注いで漬け込み、それを湯がいた春キャベツでいただくのが流行っている。家人がどこかでレシピを入手して始めたものだけれど、これが予想外にいけるのだ。パンでいただく朝ご飯にも、ワインといっしょに夕ご飯の少し前にも。健康にもいいとか。

 結局、どんなときでも、食べ物と料理法は文句なく興味、関心がそそられるものであるらしい。でも、それはとりあえず、戦争とか災害とか緊急時から遠いところで営まれる暮らしにおいて、という条件つきだけれどね。

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PS: 南アメリカはアルゼンチンにいるらしいそのクッツェーの「小さいころロビンソン・クルーソーって実在の人物だと思っていた」というぶっちゃけたインタビューがここで読めます。ただしスペイン語! 

2014/04/19

花曇りの午後に

 桜が終って、日に日に若葉が緑を濃くしていくこの季節。杉花粉も少しおさまってきたような気がする。ほっとする時期だ。レッドロビンの赤が鮮やか。

 花曇りの夕方ちかく、クッツェー三部作の再校ゲラを読了し、長い解説もほぼ完成したので、ぶらりと散歩に出た。

 あちこちで姫林檎が咲いている。山吹も咲き出した。
もちろんチューリップはいまを盛りと咲いてはいるけれど、今日の気温に花びらをしっかり閉じているようすが、コーンに盛りつけたアイスクリームのよう。

 ユキヤナギはもう終わりかな、薄いピンクのグズベリの花も散ったな、なんて思いながら歩いていくと、駐車場に薄茶色の不器量な猫が一匹、不機嫌そうな顔をして座っていた。
 遠くから撮っているうちは、こちらを無視していたが、少しだけ近づくと、そそくさと柵の向こうへ姿を消した。
 彼ら彼女らのなわばりだ。
 
 この辺は夜になると、狸をよく見かけると家人たちが言っていたっけ。
 見ると、ふたつのベンチのあいだにふわりと空から垂れ下がるようにして、たくさん花をつけたアメリカハナミズキの枝が。ほら、見て見て、こんなに花をつけているよ、とこちらに向かって、まるでおじぎでもしているように咲いていた。

2014/04/17

Turbulent Indigo/ジョニ・ミッチェル

facebook でのやりとりで記憶にいきなり浮上したアルバムについて少し。

 ジョニ・ミッチェルの「Turbulent Indigo」1994 です。発売されたときすぐ買ったわけではありません。ジョニ・ミッチェルは名前こそむかしから聞いて知ってはいたものの、ジャズばかり聴いていたわたしにとっては、もっぱら北米大陸から出てくるフォークやらロックやら、白人たちの音楽の向こうにいる人でした。「青春のなんたら」というような映画音楽といっしょに記憶されていたシンガーでした。ところが・・・

 2001年だったと思うのですが、カナダの西海岸のソルトスプリングという島に移住した友人の家を訪れたときです。乾いた空気が密度をます夏の夕べ、彼女はこのアルバムをかけながらキッチンに立って夕食の準備をしていました。「これ、だれ?」と訊くと「ジョニ・ミッチェルだよ、このアルバムで好きになった」というのです。たしかに。凄いアルバムでした。

 日本に帰ってきてすぐ買いました。1994年のアルバムです。日本版は出たのかな? ジョニ・ミッチェルでわたしがもっているたった一枚のアルバムです。日本の男性ファンでこれを「いいね」する人には、絶大な信頼を寄せたい。
 とにかく歌詞がね、凄い、とわたしは思った。たとえば、Not to Blame という曲。歌詞を以下に少しだけあげます。意味を考えてみてください。ぜひ!

The story hit the news
From coast to coast
They said you beat the girl
You loved the most
Your charitable acts
Seemed out of place
With the beauty
With your fist marks on her face
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Six hundred thousand doctors
Are putting on rubber gloves
And they're poking
At the miseries made of love
They say they're learning
How to spot
The battered wives
Among all the women
They see bleeding through their lives
I bleed--
For your perversity--
These red words that make a stain
On your white-washed claim that
She was out of line
And you were not to blame

I heard your baby say

When he was only three
"Daddy, let's get some girls
One for you and one for me."
His mother had the frailty
You despise
And the looks
You love to drive to suicide
Not one wet eye around
Her lonely little grave
Said, "He was out of line girl
You were not to blame."



2014/04/16

ローズマリーとローレルの花

今年もローレルの花が咲いた。4月は雨が少ないせいか、ずいぶんたくさん花をつけている。


 接写してみると、十文字に開いた白い四枚の花弁(ガクか?)のなかに、それと交差するようにまた4枚の黄色い小さな花びらが開き、そのまんなかに黄緑色のまるい蕾状のものから白い房が突き出ている。なかなか複雑な構造である。
 いつものように伸びた枝を少し切って、近隣の方々にもらっていただいた。

 ついでにローズマリーの花も切った。花を切る、というより、つんと伸びた枝を途中でバッツリ花ばさみで切るのだけれど、花は枝の途中から下についているので、ローズマリーを花瓶にいけるのはなかなか難しい。もっぱら細い針状の葉を乾燥させて、肉や魚料理に使うのがいいかもしれない。これは野に咲く花として楽しむのがふさわしい。薄い紫色の花の色は半月ほど前に、94歳で他界した母の大好きな色だった。

 今年は冬に雪が降った。積雪の重みでローズマリーの茂みが四方八方に枝を広げて、いささか不格好な形になっている。少し剪定してやるが、なにしろ硬い。花ばさみで何本も切っているうちに、手にあたった部分が赤くなって、痛くなってきた。皮下出血だ。使い慣れない道具をもって、夕暮れ前にそそくさと退場する。

 気がつくと、ずいぶん日が長くなってきた。
 さんざんな3年ではあったけれど、花は今年も咲くのだ。そしてこれからもしばらく、命あるものは生きていくのだ。願わくば、身のまわりの多くの命たちに恥じない生き方をしたいものだ。