2011/10/01

西成彦著『ターミナルライフ』

 クッツェーの代表作を、それが生み出されたコンテキストの奥をあたうるかぎり探りながら、本格的に読み解こうとする論が出た。

 西成彦著『ターミナルライフ 終末期の風景』(作品社)の最後の2章だ。
 
 カフカの『変身』『訴訟』『流刑地にて』『城』を論じる各章がならび、カミュの『異邦人』、ナボコフの『断頭台への招待』、セリーヌ『なしくずしの死』、シュルツ『砂時計のサナトリウム』とつづき、フォークナー、プルースト、ゴンブローヴィッチ、ベケット、シンガーと進んで、最後にクッツェーがならんでいる。
 ここであつかわれているクッツェー作品は『鉄の時代』と『恥辱』で、それぞれ個別の章立てで論じられているが、本のタイトルどおり「終末期の風景」が切り口。

 とりわけ『恥辱』の読み解きは秀逸で、主人公デイヴィッド・ルーリーと娘ルーシーを対比させながらの論の展開が読ませる。これまではもっぱら初老の男、デイヴィッドの行動や心の変化を追いかけながら論じられることが多かったのに対して、この本の著者は、旧ヨーロッパ植民地南アフリカのアパルトヘイト撤廃後の社会で、あえて田舎に住むことを選択したヨーロッパ系女性ルーシーを視野のなかにしっかりとおさめている。そこがいい。南アフリカという土地の歴史的な特性を分析し、ジェンダーの問題、それに絡んだ暴力の問題を視座にすえ、どん底から生き直そうとするルーシーという女性の存在や、その生き方の意味を真っ正面から論じているのだ。
 
 じつをいうと、これは『恥辱』という作品のきわめてスタンダードな読み方なのだ。ところが日本では、クッツェーという作家の作品はこれまで、おおむねポストモダン的なスタイル上の分析対象として、あるいは、ポストコロニアル理論に合致する例として取りあげられることが多かった。「リアリズム」に近い『鉄の時代』と『恥辱』という2つの作品を、核心にいたる鋭いことばで、それも日本語のことばで、深く読み解いてみせてくれる論は、これが初めてのような気がする。(わたしが知らないだけかもしれないが・・・。)

 終末期の風景、というサブタイトルが示すように、問題は「生命」であり、人間と動物の関係も含めた、何層にもおよぶそのありようであり、それに光をあてることだから、これは時間を要したことだろう。著者は、ときには原文にあたりながら、「スロー・リーディング」という手段による徹底した読みを用いている。どんどんページをめくって、美味しいところをささっと見つくろってならべてみせる読み方の対極に位置する方法である。読んでいて、ふ〜む、としっかり唸りました。
 
 1999年に「Disgrace」が出てから12年、『恥辱』として日本語訳が出てからも11年の歳月が経過しようとしているいま、ようやく J.M.クッツェーという作家の作品が、正面から、本格的に読み解かれる時代がきたのかなと思う。熱烈歓迎である。

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翌日の独り言:しかしなあ、クッツェーやってると、砂嵐のなかに突っ立ってるような気分になってくるよなあ、だんだん干涸びてく/笑。しかし、これを愉楽に変える方法もじつはあって・・・ふふ。
 

2011/09/30

毎日新聞、足立旬子さんの記事

本日朝刊に掲載された記事です。

記者の目:原発事故とエネルギー政策見直し=足立旬子(東京科学環境部)

 facebook に投稿したら多くの人が「いいね」ボタンを押してくれたり、シェアしてくれたり、あるいは管啓次郎さんがご自分のブログで紹介したりしているのに、すっかりこのブログに書くのは忘れていました。

 これは多くの人に読んでもらいたい内容の記事です。すごく、すごくまっとうです。こういう記事が大手の新聞にしっかり掲載されることは、いまの時期、絶対に必要なことです。

2011/09/26

クッツェーが書いた『サミュエル・ベケット/詩、短編、批評』へのイントロ

昨日、ベケットつながりの二人の作家、クッツェーとオースターのことを書いたついでに、そのとき触れた『SAMUEL BECKETT』第四巻のなかの、クッツェーの「Introduction」をまたちらちらとながめていたら、やっぱり最後のところに目が行った。
 5年前にこの本を買ったとき、鉛筆で書き込みをしながら読んだらしく、そこにはうすく線も引いてあった。線を引いたときの自分の心理状態までありありと思い出すのだから、いいのかわるいのか、いや、思い出すきっかけになるのは、いいことなのだと思うことにしよう。

 クッツェーの文章「Introduction」の最後の部分を、ちょっと書き写してみる。
 
In the popular mind his name is associated with the mysterious Godot who may or may not come but for whom we wait anyhow, passing the time as best we can. In this he seemed to define the mood of an age. But his range is wider than that, and his achievement far greater. Beckett was an artist possessed by a vision of life without consolation of dignity or promise of grace, in the face of which our only duty -- inexplicable and futile, but a duty nonetheless -- is not to lie to ourselves. It was a vision to which he gave expression in language of a virile strength and intellectual subtlety that marks him as one of the great prose stylists of the twentieth century. --- J.M. Coetzee

 この「-- inexplicable and futile, but a duty nonetheless -- is not to lie to ourselves.・・・」のところ。クッツェーさんはよく「duty」ということばを使う。これはごく普段のメールなどでも使われていたし、口にも出していたように思う。

「ベケットは consolation of dignity とか grace of promise のない生のヴィジョンに取り憑かれた芸術家で、それに直面するわれわれの唯一の duty は -- 名状しがたく役にも立たないが、それでも duty にほかならないのは -- 自分自身に噓をつかないことである」

 まっすぐな表現は「ださい」といって回避する文化を背景にもつ日本語に移すと、なんともダイレクトに響くのだけれど、ここには「truth」こそが文学の根幹にあるのだ、とくりかえし書き続けるクッツェーという作家の核があらわれている。だから鉛筆を引いたのだと思う。

 婉曲表現の巧みさを競い合う日本語文学とは異なる、それゆえに、まさに人間存在にとって普遍的なものを伝えることばがここにはあると、「入学式は桜ふぶき」ではなく「入学式は本物の吹雪」のなかだった、旧植民地出身者のわたしなどは思うのだ。
 

2011/09/25

クッツェーとオースターの往復書簡集がそのうち

2011年9月22日にカナダのキングストンで開かれた文学祭で、J.M.クッツェーがポール・オースターといっしょにステージにのぼり、それぞれ現在書いている作品から読みあげ、さらに相互に出し合った手紙を読んだようです。

 面白い試みですねえ。手紙はたんに用件を伝えるだけではなく、作家の手になるエッセイのようで、それを耳から聞くのはさぞや刺激的な体験だったでしょう。


 クッツェーとオースターが知り合ったのは、オースターが編集を担当したサミュエル・ベケットのシリーズ「The Grove Centenial Edition」(2006)の第4巻に、クッツェーが「まえがき」を書いたことがそもそものはじまり。2006年といえばクッツェーが初来日した年です。

 いずれその手紙は書籍になるというのですから、これまた楽しみですねえ。クッツェーとオースターの往復書簡集なんて、ベケットファン、クッツェーファン、オースターファン、みんながわくわくしそう!

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これは、現場にいたカナダの作家、Susan Olding 氏のブログから得た情報です。詳しくは直接そちらへ!
http://susanolding.com/site/kingston-writersfest-auster-and-coetzee/

2011/09/21

クッツェーの自伝的三部作が届いた

台風15号の嵐のなか、イギリスから9月15日発売の J.M.クッツェーの自伝的三部作「Scenes from Provincial Life」が届いた。

 全484ページのずっしりとした重さ。
 カバーをとると、なかは明るいライトブルーの布地にタイトルが白地のエンボス、作者名がグレーのエンボスで圧してある。おや、洋書にはめずらしく、ダークグレーの布のしおりがついている。

 表紙をかざるイメージは「ウェスタンケープ地方のカルーの花の写真」。さっそくページを開いた。奥付にあたるページの右に、「In memoriam D.K.C.」とある。2010年1月に他界した、2歳ちがいの弟、デイヴィッド・クッツェーの思い出に、という意味だろう。

 さあ、いよいよ作業開始!

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後記(10月31日):以前、表紙の写真を「秋の草原」と書きましたが、よ〜く見ると、これは花がこれから咲くところらしく、細い茎の先についているちいさな球はつぼみのようです。いくつかちらほら花が咲きかけているものもあります。ウェスタンケープの植物は、日本の草花のイメージとはまったく違うのかもしれません。

2011/09/13

北海道のポプラ


 北海道に住んでいたころ、白樺のつぎに好きだったポプラ。(林檎は別かな。)
 といっても、家のまわりには、ほかに常緑樹は種類があまりなく、いや、たんに名前を知らなかっただけかも・・・。
 とても幹がやわらかい木。葉っぱが幹の途中からどんどん、どんどん出てくる木。山羊がその若葉を好んで食べたっけ。

 このポプラの木、クッツェーの『少年時代』のいちばん最初に、「ポプラ通り十二番」という住所として出てくる。
 アフリカ最南端のケープタウンからちょっと内陸に入ったヴスター(ウスター)という町に、少年が8歳から12歳まで住んだときのことだ。

 南半球を舞台とした作品にポプラという樹木の名が出てくるのを見て、なんだか不思議な懐かしさを覚えたのを思い出す。さあ、そろそろ改訳作業をはじめなくちゃ。

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写真は札幌の書肆吉成店主、吉成秀夫氏の撮影です。

2011/09/11

disgrace はこの国の原発推進派にぴったりな言葉かも

 ふと思ったことだけれど、J. M. クッツェーの傑作小説「Disgrace」というタイトルは、いま、この国で起きている原発をめぐる責任者たちのためにこそあるのではないか。

 東電をはじめとする電力会社、経産省、原子力「安全」委員会、保安院、原発をこれまで推進してきたすべての学者、研究者、政治家、実業家、それを支えてきたマスコミ、広告、さらには放置してきた国民まで含めて。

 クッツェーの小説「Disgrace」は「恥辱」と訳されたけれど、原発をめぐるこの国や東電の対応に「恥ずかしい」という感覚はないだろう。あれば、もっと対応がちがってくるはずだ。これだけ生命を、生態系を傷つけ、生き物たちの傷みをないがしろにしながら、それでもさらに、巨大な利益を生み出すマッチョな装置を押し進め、毒性については隠蔽しようとあらゆる努力を惜しまない、そんな生き方、その態度。

 ここは、したがって、ことば本来の意味をそのまま使おう。

 disgrace=loss of reputation or respect as a result of a dishonourable action

 disgrace = 不名誉、不面目、 恥さらし、面汚し、恥辱。



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註/クッツェーの小説の主人公、デイヴィッド・ルーリーは恥ずべき事態にそれなりに向き合い、それなりに考え、なんとか希望をみつけようとする。隠蔽はない。そのプロセスを突き放したように描くところが読者の心をうつのだが・・・。

追記:よく考えると、クッツェーが書いているのはあくまで「個人」の disgrace であって、巨大な集団をそのまま人格としてあつかうのはこの場合無理があるかもしれない。でも、その集団を形成しているのは、やはりひとりひとりの「個人」なのだが。

2011/09/10

もう一度、カナディアン・ロッキーへ

また暑さがぶり返してきました。もう一度、涼しげなカナダの山と湖へ、気持ちだけでも飛びたい。



たぶん、いまごろはすでに秋の気配が。
写真は、Brian Smallshaw さんの撮影です。

2011/09/09

「吹きわたる風、アメリカの風」

Rainy Day Bookstore & Cafe で昨夜おこなわれた「ポエトリー・リーディング & トークライブ」に行ってきた。

吹きわたる風、アメリカの風

 期待にたがわず、面白い催しだった。アメリカから来た詩人2人(詩の出版社もやっている)と、日本の詩人/作家7人が、それぞれ自作を日本語と英語でつづけて朗読する、というユニークな企画。出演者がまたとても興味深い顔ぶれだった。

 ジョエイエル・ミックスウィーニー/ヨハネス・グランソン
 伊藤比呂美/管啓次郎
 平田俊子/小池昌代/旦敬介/田中庸介/蜂飼耳

 司会は管啓次郎さんと、伊藤比呂美さん。

 前半は日本の詩人が、後半はジョエイエル・ミックスウィーニーとヨハネス・グランソンのカップルが朗読。この2人と伊藤比呂美さんは、60年代のアメリカ、ビートニクの詩人(アレン・ギンズバーグの名があがっていた)に多大な影響を受けたとか。ことばと音とリズムを即興的に絡ませて紡ぎ出す、インプロヴィゼーションそのものといったパフォーマンスがじつにスリリングで面白かった。

 この流れは日本でもひとつの形を成してきたことがよくわかる。独特の「のり」をその場で楽しむ経験が、カフェ全体を包んでいた。不思議なオーラもあって、これは一種のエンタテイメントといっていいかもしれない。それでいて、押し付けがましい過剰さがないところもまたよかった。全体に肩の凝らない、知的な刺激にみちていたところが。

 なんといっても面白かったのは、「詩と翻訳」の関係、これは「詩」にかぎらないけれど、女性のナラティヴを男性が訳すと「〜わ」とか「〜よ」と過剰につく傾向があり、「そんなに、わよわよ、いわない」と伊藤さんや平田さんが指摘していたことだ。
 これは小説の翻訳にもいえることで、同性の読者が「のれる」かどうかを決定的に左右するポイントだ。つまり、女性の訳者が男性のナラティヴを訳すときもステロタイプにならないよう要注意、ということでもある。でも、どちらかというと、まだまだ男性訳者の女性ナラティヴ訳が「わよわよ」しがちなことは否めないかな。

 あらためて思ったのは、声に出される詩の面白さだ。耳から入ってくるのと、目でページの文字を追いかけるのとでは、質的にずいぶんと異なる経験なのだと、いまさらながら再確認。耳からことばを聞く、声を聞く楽しみ、語り手の表情や動きを目で見る楽しみ。

 それはそれで限界ももちろんあるのだけれど、その「楽しさ」をあなどってはいけない、といま一度、確認した夜でした。

2011/09/04

嵐が去って・・・

台風12号がようやくおさまってきた東京です。気温はまだまだ高いけれど、風は秋の気配が濃厚になってきました。


 行く夏を惜しみながら、いま一度、すばらしいカナダの大自然の写真をお楽しみください。氷河がまたすごい!


 このリスがなんとも可愛い!



 撮影:Brian Smallshaw

2011/09/03

思いっきり「カナディアン・ロッキー」へ

台風12号はまだ四国、中国地方をうろうろしている。ずいぶん動きの鈍いやつだ。雨と風が断続的に激しく窓を打つ。止んだ、と思ったらまた始まる。気分だけでもカナダへ飛ぼう。


 それにしても、あらためて思うのは、震災直後、3月の「計画停電」のこと。あれはいったいなんだったのか? 暑い夏でさえ停電はなかった。電力は十分補給されうるのだ。
 だから3月の停電は明らかに脅し、そして、なにかを隠すためのプロパガンダだった。情報操作。その事実をどうしてもっと追求しないんだろう。国立などでは実際に停電が起きて、レストランや食料品店が営業上大きな被害を被った。損害賠償の訴訟を起こしてもいいくらいだ。



 写真はすべて、Brian Smallshaw さん撮影。

2011/09/01

9月「水牛のように」に詩を書きました

水牛のように」に詩を書きました。

 雨の音に

 今月の水牛は力作ぞろい。胸をうつ詩や、短篇、エッセイがならんでいます。

付記:ブライアン・スモールショーさんのすてきな写真を、これからしばらく一枚ずつアップしていきます。