昨日、ベケットつながりの二人の作家、クッツェーとオースターのことを書いたついでに、そのとき触れた『SAMUEL BECKETT』第四巻のなかの、クッツェーの「Introduction」をまたちらちらとながめていたら、やっぱり最後のところに目が行った。
5年前にこの本を買ったとき、鉛筆で書き込みをしながら読んだらしく、そこにはうすく線も引いてあった。線を引いたときの自分の心理状態までありありと思い出すのだから、いいのかわるいのか、いや、思い出すきっかけになるのは、いいことなのだと思うことにしよう。
クッツェーの文章「Introduction」の最後の部分を、ちょっと書き写してみる。
In the popular mind his name is associated with the mysterious Godot who may or may not come but for whom we wait anyhow, passing the time as best we can. In this he seemed to define the mood of an age. But his range is wider than that, and his achievement far greater. Beckett was an artist possessed by a vision of life without consolation of dignity or promise of grace, in the face of which our only duty -- inexplicable and futile, but a duty nonetheless -- is not to lie to ourselves. It was a vision to which he gave expression in language of a virile strength and intellectual subtlety that marks him as one of the great prose stylists of the twentieth century. --- J.M. Coetzee
この「-- inexplicable and futile, but a duty nonetheless -- is not to lie to ourselves.・・・」のところ。クッツェーさんはよく「duty」ということばを使う。これはごく普段のメールなどでも使われていたし、口にも出していたように思う。
「ベケットは consolation of dignity とか grace of promise のない生のヴィジョンに取り憑かれた芸術家で、それに直面するわれわれの唯一の duty は -- 名状しがたく役にも立たないが、それでも duty にほかならないのは -- 自分自身に噓をつかないことである」
まっすぐな表現は「ださい」といって回避する文化を背景にもつ日本語に移すと、なんともダイレクトに響くのだけれど、ここには「truth」こそが文学の根幹にあるのだ、とくりかえし書き続けるクッツェーという作家の核があらわれている。だから鉛筆を引いたのだと思う。
婉曲表現の巧みさを競い合う日本語文学とは異なる、それゆえに、まさに人間存在にとって普遍的なものを伝えることばがここにはあると、「入学式は桜ふぶき」ではなく「入学式は本物の吹雪」のなかだった、旧植民地出身者のわたしなどは思うのだ。