piano:Leif Ove Andsnes, 2004 |
しかしこの人、名だたる新聞などに評を書くインテリでもあり、こんな本を書いている。
Schubert's Winter Journey: Anatomy of an Obsession
『シューベルトの冬の旅:オブセッションの解剖』
日本語訳はタイトルが『シューベルトの「冬の旅」』と、なぜか副題の「オブセッションの解剖」がない。残念だ。というのは、この副題にこそ深い意味があるからだ。ボストリッジがヴィルヘルム・ミュラーの詩を分析する鋭くも現代的な視点というか、それこそがこの本の真価ではないか。つまり、それぞれの詩行をドイツ語から英語へと翻訳し、スパッと解剖するように分析しながら「ロマン派のオブセッション」に光をあてていく、そこがこの本の読みどころなのだと思う。めっちゃスリリングではないか!
なぜこの本に出会ったかというと、J・M・クッツェーの『サマータイム』が引用されているとfb友達が書いていたのを知ったからだ。
えっ!シューベルトって、あの「ジュリア」の章に出てくるシューベルトの弦楽五重奏曲のアダージョにあわせて、ジョンがジュリアとセックスしようとする箇所?と思って聞いてみると、その通り。その方がくだんの箇所を教えてくれて、読んだ。ナポレオン・ボナパルト亡きあとのオーストリアで、、、という笑えて泣かせる箇所を再読した。
それで、はまってしまった。もう一度、クッツェーの『サマータイム』を「オブセッションの解剖」という視点から読み返そう。もう一度、シューベルトの『冬の旅』を聴き直そうと。
ボストリッジは日本でも有名なテナー歌手で、何度も来日しているし、アルバムも出していた。そうなんだ〜!
わたしは中学生の少女時代あの天鵞絨のような声をしたディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウでシューベルトにばっちりはまったことがある。1960年代はじめのことだけど。
クッツェーが10代半ばのカレッジ時代にロマン派の詩人にあこがれて、キーツみたいな詩を書こうとしたことは『青年時代』(2002)にも出てきた。
「なんでまた、キーツにひどく惑わされて、自分でも理解できないキーツ風ソネットを書こうなどと思ったのだろう」(『青年時代』─インスクリプト刊の三部作p199)
そこではたと考える。クッツェーにはロンドンに渡ってもやっぱりロマン派的な嗜好、思考、志向がベースにあったし、おまけに旧態然とした旧植民地の南アフリカで21歳まで(1961年まで)学んだ人だったから、人一倍「中央の都市文化」への「憧れ」は強かっただろう。だから『青年時代』は、もっぱらそのころの自分に対する鋭くも批判的な視点で書こうとするんだけど、どうも不完全燃焼ぎみ。
そこで第3部『サマータイム』(2009)はがらりと様式を変えたわけだ。三部作ってのは、いつも第二部がちょっと面白くなくなるんだ、これは避けられない宿命なのだ。
ボストリッジの本はシューベルトの『冬の旅』を一曲一曲丁寧に分析して、英訳も載せている。『サマータイム』が出てくるのは第4曲「凍結」の章で、読んでみると、その分析がじつに冴えている。ミュラーの詩の「ストーカー性」をみごとに暴いているのだ。
ロマン派ってとどとつまりは、自分の思いや感情にとらわれて他者がまったく見えない「ストーカー」的な心情だと分析している。分析するだけではなくて、そのオブセッションを体現するかのように『冬の旅』を歌う、その歌がこの上なくいい。なぜだろう。そこを考えてみたい。若いころの録音がとくにいい。そう、30代のあまくてソフトな声がいいのだ。ディースカウはいま聴くと退屈だが、ボストリッジは聴き飽きない。その違いを、ゆっくり考えてみたい。