Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2018/12/04

風の曲がり角──ヘンドリック・ヴィットボーイの日記(最終回)

ナミビアの首都はWindhoekと地図に書かれ、「ウィントフック」とウィキペディアには出てくる。読み方はアフリカーンス語なら「ヴィントフック」、ドイツ語も音はおなじだが表記はWindhukだ。ナミビアは独立時に公用語を英語と決めたために、頭文字のWが濁らない「ウィントフック」として定着しているのだろう。まあ、読む人のオリジンによってさまざまな音になりそうな地名だ。
 
 しかし、この地名はどこから来たのか?

ウィントフックにあるドイツ教会と、
かつて立っていた騎馬像
その土地は先住民のナマ語では「!ai-//gams(ai-gams etc.)」(クリック音などありそうで発音できません😢!)、ヘレロのあいだではOtjimuise(オキムイゼ) と呼ばれて、「温泉」を意味したという。
 風が吹き抜けるという地理的条件から「風の曲がり角/Windhoek」と呼ばれたという説が有力だ。ケープダッチ(ケープ植民地のオランダ語、のちのアフリカーンス語)でWindは風、hoek はcornerの意味。だから「風の曲がり角」。
 ほかにも、ヘンドリック・ヴィットボーイより前の時代に活躍したOrlamのトップ、ヨンカー・アフリカーナ/Jonker Afrikaner が南アフリカからこの地に渡って拠点を作ったとき、故郷にあった山の名前 Winterhoek をこの土地につけて、それがいつのまにかWindhoekになったという説もある。

 いずれにしても、その後、ここを支配したドイツ系植民者がそれをドイツ語ふうの表記 Windhukと変えた。ドイツが第一次大戦で敗戦国となり、南西アフリカは南アフリカの実行支配下に入って、またアフリカーンス語表記 Windhoekに戻した。ナミビア独立時に英語が公用語になり、この土地の名は英語読みされて「ウィントフック」となった。
 もちろんナミビアに住むドイツ語話者はドイツ語ふうに発音し、アフリカーンス語話者はアフリカーンス語ふうに読んでいるのだろう。多様な背景をもった人々が、多様な言語の音でその土地を呼ぶ。それぞれに「正しい理由」をもちながら。だから、旧植民地の土地の名前に「正しい呼称」などないと考えたほうがいい。つまり力関係がそれを左右するのだ。

 こんなふうに、土地の名前には何層にもおよぶ歴史の痕跡が隠されている。

騎馬像跡に建てられた犠牲者の記念碑
Orlamと呼ばれる集団はいくつかあって、ヘンドリック・ヴィットボーイの王国もそのひとつ。南部のナマクワランドに住んでいた牧畜・狩猟民族である褐色の肌をした先住民とオランダ系植民者の混血だ。この地に入っていったキリスト教宣教師によってオランダ語とキリスト教思想を教え込まれたヴィットボーイは、ナマ語のみならず、ケープダッチの読み書きができた。だから「日記」が残っている。
 19世紀末のドイツの植民地時代にウィントフックの中央にはドイツ教会が建てられ、その真向かいにReiterdenkmal(騎馬像)も建った。植民者の苦労を記念する像だ。しかし、1990年に独立した後は、その騎馬像が取り去られ、ドイツ軍のジェノサイドによって犠牲になった先住民系の人たちの像に、じわじわと置き換えられた。ドイツ教会のすぐそばには新たに独立記念博物館が建てられた。そのプロセスを講義で聞いた。

バルタザール・ドゥ・ビールとアナ・ルイザ
(カンネメイヤーの伝記から)
さて、ここでクッツェーがなぜ Late Essays の最後に「ヴィットボーイの日記」をめぐる章を入れたか、という話に戻ると、彼の母方の曽祖父バルタザール・ドゥ・ビール(1844~1923)が、1868年にドイツ宣教師団の一員として南アフリカへ送られ、この南西アフリカで布教活動をしているのだ。そのことはすでに書いた。モラビア出身の宣教師の娘と結婚し、数年後にアメリカへ渡って、イリノイ州のドイツ人コミュニティで布教。そのとき生まれたのがジョンの母親ヴェラ・ヴェーメイエルの母、つまりジョンの祖母ルイザ・ドゥ・ビール(1873~1928)だった。
 少年ジョンはポメラニア出身の曽祖父バルタザールはてっきりドイツ人だったと思っていたが(そう教えられた)、調べてみるとどうやらポーランド人で若いころ名前をドイツ風に変えてドイツ人宣教団に入ったことがわかった(これは今世紀に入ってから判明した事実)。

 というわけで、J・M・クッツェーにとってケープ植民地と南西アフリカの歴史は、デビュー作『ダスクランズ』の第二部「ヤコブス・クッツェーの物語」の背景として、また、『少年時代』にも出てくる彼のオリジンをさかのぼる家族の歴史・物語として、切っても切れない関係にあるのだ。
 ケープ植民地と南西アフリカの歴史は、したがってクッツェーの作家活動の起点であり、人間クッツェーの自己認識の足場を形成したものである。そこが「ケープ植民地の歴史は、ヨハネスやナタールといった土地の歴史とひとくくりにできない」とクッツェーがいう理由なのだろう。(了)

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付記:2018.12.10──ナミビア研究の専門家Sさんに、Windhoek の呼称の由来について、詳細なコメントをいただき、訂正しました。やっぱりWikiだけに頼っていては危ない、ということですね。