翻訳をはじめたころはまだ紙が主流だった。小型のワープロはまだなかった。ワープロなるものはあっても、巨大な四角い大げさなものだった。それから30年あまりで、いまや iPad やらスマホやら。
すぐに忘れてしまいそうなことを、自分にとっても記録として残しておきたい──そう思い立って書いているうちに、マシンと人の流れを追っていた。ワープロから小型パソコンへ移り、原稿用紙やタイプスクリプトからPDFへ激変する翻訳現場について、すこし調べた。いろいろ考えてしまった。
あれこれ思い出しながら考えていると、浮上してきた J・M・クッツェーの『鉄の時代』をめぐるエピソード。あれは忘れがたい。いまでもあのときの作家の笑顔が、ありありと目に浮かんでくる。2007年12月初旬。
東京の冬は寒いでしょ? とたずねると、いや、穏やかな(gentle とルビ)冬ですよ、と答えたジョン・クッツェー。その声が耳元で響く。