Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/12/11

和田忠彦教授退官記念シンポジウムに参加して


昨日は東京外国語大学の和田忠彦さんの退官記念シンポジウムに参加してきた。午後1時から始まって午後7時すぎまでの長丁場だったけれど(わたしは少し遅れて参加)、登壇者の方々の発表がそれぞれ個性に満ちていて、驚くほど刺激的な内容だった。

 わたしが聞いたのは第1部の半ばからだったけれど、シンポジウム全体に共通した問題意識の中心は、やはり、「表現」「翻訳」「詩」について、「翻訳」とテクストの背後に潜む「声」を「呼び出す」あるいは「召喚する」ということについてだっただろうか。プログラムの内容を備忘録のためにも記しておこう。

 第1部 感覚の摘み草──五感の表象と戯れる
  司会:松浦寿夫 
  登壇者:福嶋伸洋 小沼純一 沼野恭子 岡田温司 山口裕之
 第2部 ことばのたろんぺ──とけては固まる翻訳の言葉 
  司会:久野量一
  登壇者:Giorgio Amitrano  木村栄一 西成彦 澤田直 栩木伸明 都甲幸治
 第3部 声の在処──詩から詩へ
  和田忠彦
 第4部 読みまどろむ
  司会:土肥秀行
  登壇者:くぼたのぞみ ぱくきょんみ 山崎佳代子 / 和田忠彦
              

 硬い木の椅子に座って長い時間をすごしたけれど、それに十分みあった、いやそれ以上の収穫のある時間だったように思う。

 なんといっても、第3部の和田忠彦さんの講義が圧巻だった。モンターレの詩を引用しながら、カルヴィーノとタブッキをめぐる話を進める和田さんの、ゆったりと安定した声の響きは、聴いているものを完全に魅了して、じわじわと遠く、彼方へ誘う力を秘めていた。和田さんって、こんな魅力的な話し方をする人だったのか!と遅ればせながら、イタリア文学門外漢のわたしは驚いた←気づくのが遅すぎるのだ!

 第4部に、土肥秀行さんの司会で和田さんご自身を交えながら、詩人のぱくきょんみさん、山崎佳代子さんといっしょにわたしも登壇して、それぞれが和田さんの著作や翻訳から朗読した。わたしは和田さんが2008年に発表した『ファシズム、そして』(水声社)の最後におかれた「思考の軛から解読の鍵へ──<同時代/モダン>の発見」から少しだけ読んだ。その文章はこんなふうに始まる。


 ファシズムを究極のモダニズム表現として考えてみる──当初は突飛とも映ったにちがいない仮説をことあるごとに提示するようになったのはいつからだろう。
 
 そして2ページ後の次の一行へたどりつく。

 表現と、時間軸においても空間軸においても立体的に向き合うこと、それが同時代のまなざしで作品を読むことなのだ、と──柱廊のめぐる街で暮らしながら文学研究の方向を手探りしていたわたしが掴んだ問題の在処は、たぶんこのことだったにちがいない。


 「表現と、時間軸においても空間軸においても立体的に向き合うこと」という1行に、強く共感し、共振する翻訳者としての自分がいたのだ。この本が出たのは2008年だから、すでに8年もの歳月が経過している。でも、その後の「Cross-Lingual Network 世界文学・語圏横断ネットワーク」の活動へと広がっていった和田さんの仕事の方向性は、この『ファシズム、そして』ですでに定まっていのではないか。そして、3.11のあと危機感を共有する多くの人たちの切迫感へと繋がっていったのだと思う。

 和田さんの仕事のすごさは、すでに膨大なその仕事量もさることながら、これからそのあとに続く人たちに確実に伝えてきたもの、伝えようとしているものにこそあるのではないか、昨日の感動的な講義を聞いていてそう思ったのはわたしだけではないかもしれない。実行委員会を担った人たちの、心のこもった周到な準備、行き渡った心遣いなどをひしひしと感じた1日でもあった。Muchas gracias!