Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/09/07

なぜ、クツィアでもクッツィーでもなく、クッツェーか

 今日もまた『少年時代』の見直しをやる。アフリカーンス語をめぐるジョン少年の立ち位置をよくあらわす文があった。作家クッツェーが、Coetzee を「クッツェー」と発音する理由はここにあるのか、と理解できる箇所だ。

 英語には「eː」という長母音がないため、ややもすると「クッツィー」と発音されがちな彼のファミリーネームを、どこまでもアフリカーンス語風に、あるいは、オランダ語風に「ツェー」と発音させる理由がここから読み取れる。
 これはまさに、作家のオリジンに対するこだわりであると同時に、彼が幼いころから感じてきたアングロ世界のモノリンガル的態度に対する居心地の悪さに通底する箇所でもあるだろう。


 イギリス人のことで落胆すること、真似はしまいと思うこと、それはアフリカーンス語に対する軽蔑だ。彼らが眉を吊りあげ、横柄にもアフリカーンス語のことばを間違えて発音するとき、「フェルト(veld)」を「ヴェルト」というのが紳士たる者の証しであるかのようにいうとき、彼らとは距離を置く──彼らは間違っている、間違いよりもはるかに悪い、滑稽だ。彼としては、たとえイギリス人に囲まれていても、譲歩しない。アフリカーンス語のことばを、本来口にされるべき音で、固い子音も難しい母音もすべて発音し分ける。

                    ──『少年時代』14章 ──