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この8章には、少年がヴスターの駅前の敷地でひとりのカラードの少年を見かける場面から始まり、カラードの少年少女の身体のなかに人間の容姿としての完璧性を見出して、少年としての初々しい欲望を、しかし彼自身にとっては「暗い欲望」を、自分だけがもつ欲望だと考えてあれこれ思い悩むところが描かれている。
この章はしかし、10歳前後の少年ジョンが抱く欲望にカラードが生み出された経緯を絡めて、一気に、南アフリカという土地の歴史が語られていく章でもある。1950年ころの南アフリカの現実の生活のなかで、ヨーロッパ人の、ヨーロッパ人男性の欲望がどのような結果を招いてきたかを少年が強く意識し、あれこれ理屈で考え抜いていく場面にもなっているのだ。
たとえば、こんなふうに。
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しかし「カラード」にはそんな送還策はきかない。「カラード」の父は白人なのだ。ヤン・ファン・リーベックたちがホッテントットに産ませたのだから。それだけは、学校で使う歴史の教科書がどれほどことばを弄して偽り隠そうとも明明白白な事実だ。
1997年に発表された『Boyhood』を日本語に訳して出した1999年8月は、まだ彼の傑作『Disgrace/恥辱』は出ていなかった。南アフリカを舞台にして、男の欲望をあますところなく描き切ったクッツェーという作家の「desire/欲望」に対する思考の芽は、すでにこの少年時代のなかに明確な形で描かれていたことを、今日は、通読していてあらためて確認した。