Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/03/08

「旅する”アフリカ”文学」でスライドショー

3月12日午後7時から、六本木ミッドタウンで開かれる「旅する"アフリカ"文学」が近づいてきました。

 当日は、2011年11月にケープタウンや内陸の町ヴスターを旅したときの写真を使って、クッツェー作品の舞台を写真でめぐるスライドショーを予定しています。
 今月初旬に来日したクッツェーさんのようすや、『少年時代』の内容をめぐる疑問に彼が出した解決策など、思わずにやりとなる話などもたっぷりと。どうぞお楽しみに! 聞き手は、管啓次郎さん。

 入場無料、残席わずかです。申し込みはこちらへ!

 そうそう、アディーチェの新作『アメリカーナー』についても触れますよ〜〜〜

*******************
2013.3.10付記:今日『少年時代』の改稿を見直していて行き当たった箇所。クッツェーが少年時代からこだわりつづけてきた、アフリカーンス語に対する態度を伝えるところ。彼の名前に関する発音へのこだわりの原点はこれ! 少し長いけれど引用する。


「アフリカーンス語を話すときは、人生のさまざまに絡みあった要素が突然はがれ落ちていくような気がする。アフリカーンス語は、どこへでも彼に付着してくる目に見えない包み紙のようなものだ。そのなかに自由自在に入り込み、即座に別人になれる。より単純で、より朗らかで、より足取りの軽い人物になれるのだ。
 イギリス人のことで落胆すること、真似はしまいと思うこと、それはアフリカーンス語に対する軽蔑だ。彼らが眉を吊りあげて横柄にもアフリカーンス語のことばを間違えて発音するとき、「フェルト(veld)」を「ヴェルト」というのが紳士たる者の証しであるかのようにいうとき、彼らとは距離を置く──彼らは間違っている、間違いよりもはるかに悪い、滑稽だ。彼としては譲歩しない、たとえイギリス人に囲まれていても。アフリカーンス語のことばを、本来口にされるべき音で、固い子音も難しい母音もすべて発音し分ける」──『少年時代』第15章より。