E. Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/03/17

声の力、ことばの「無」力

3月16日「ことばのポトラック vol. 9  春に」をのぞきに、渋谷のサラヴァ東京へ行った。
 第一回が開かれてから2年という時間がすぎた。呼びかけ人の大竹昭子さんに乞われて、こんなことばをその前に送った。

「ことばのポトラックvol.1」は「ことばの力」と「ことばの無力」について突きつけられた問いへの、切羽詰まった、ある応答の形ではなかったか。そのとき多くの人がことばのもつ「声」にあらためて気づき、「声の力」を深く確認したように思う。あれから2年。この時間の意味を考えるために、自分の立っている現在地を探るために、「ことばのポトラックvol.9」をのぞいてみる。──くぼたのぞみ

 そして間違いなく2年という時間がすぎたことを実感した。
 この日、もっとも印象に残ったのは、なんといっても、大野更紗さんが iPhoneで録音してきた福島の仮設住宅に住む三人のおばあさんたちの、生のことばだったのだ。質問らしきことばとして発せられた問いに、三人三様の声で、ばらばらのしゃべりで、てんでに答えられることばたち。土地の訛りが混じり、抑揚がついて、なかなか伝わりにくいことばたちだったかもしれないが、これは昔よく聞いた語り/ナラティヴだ、と田舎に生まれ、田舎に育ったわたしなどは、ふと懐かしく感じられたりもした。
 福島にいたわけではないけれど、東北地方のことばに共通するなにかがあって、地方に共通するなにかもあって、それは私が育った土地の、時代のものでもあったからだ。そしてそれはまた、置き去りにしてきたものでもあったけれど、後悔はしていない。

 対話ではないのだ。向き合うことばではないのだ。どこか茫洋として、誰に向かって発せられるのか不分明なほど、彼女たち自身のなかから図らずも湧いてきて、自分に言い聞かせているような、確認しているようなことばたちだ。
 
 東京という日本でもっとも都市化の進んだ土地に住んで、渋谷の地下というこれまたおしゃれな空間にじっと腰をおろして聴く者の耳には、とても異質に聞こえる「生々しいことば」だ。そのことばの背後には「私たちを忘れないで」というメッセージが低く響いていた。ナラティヴとしてのその生の声の前で、造形されたことばの力は........

 さて、これから「ことば」は、「声」はどこへ行こうとしているのだろう?
その方法が、力が、問われていく。