Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/10/23

1969年復刊「ユリイカ」創刊号

住まいを上野から日野へ移したとき、多量の書籍や雑誌を預けることにした。3人のちいさな子どもたちを連れての引っ越し先には、限られたスペースしかなかったからだ。
 書籍はその後も増えつづけ、成人した子どもたちから「この家は本棚以外の家具がほとんどないんだよね」とあきれられた。彼/彼女たちにとっては、自分の育った家に対する認識を新たにしたともいうべきことばである。

 最初の引っ越しから20年後にまた引っ越した。おびただしいダンボール箱の中身がまたしても、ほとんど書籍だった。とはいえ、かつて預けた書籍を放っておくわけにはいかない時期がやってきていた。先日、整理に出かけた。
 思い切って手放すことにした雑誌類のなかに、1969年7月に復刊された「ユリイカ」創刊号があった。表紙といっしょに、安東次男が書いた「復刊によせて」と清水康雄の「編集後記」をここにアップしておく。

 復刊された創刊号が出た1969年7月は造反教官と呼ばれた安東次男にとってはまさに「乱世」、わたしにとっては「19の夏」で、それでも、編集後記にあるように「人間の死を喰べる神」が寝そべっている文学の深淵は、いまもどこかに横たわっているような気がしている。

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復刊によせて  安東次男

『ユリイカ』といっても、あれはいつからいつまで続いた雑誌だったか、と私でさえすぐには思いうかばない。ずいぶん昔のことのような気もするし、つい昨日のような記憶もある。社主であった伊達得夫の貌もそうだ。昭和三十一年十月号創刊、同三十六年二月号まで、よたよたと、頁数もふえたりへったりではあったが、ともかくも続いた。続いたというよりは、伊達は四苦八苦して懸命に出しつづけた。終刊になったのは、このペシミスチックな情熱家が、三十六年の一月十六日に急逝したからだ。まだ四十一歳だった。内気で気の弱い性格の反面、気むづかしいまでに理想家肌だった伊達は、ある意味で慎重でぐずだったが、いったん計画をきめると傍で見ていてあきれるほど強引にそれをやってのけた。惚れこむと、けっしてあきらめなかった。相手をこわさないように細かな気をつかいながら、根気づよく待つすべも心得ていた。名編集者だったし、名伯楽だった。金さえあればすぐれたパトロンにもなれた男だった。那珂太郎、吉岡実、清岡卓行、山本太郎、吉本隆明、飯島耕一、中村稔、大岡信、等々、その年齢層もかれの同世代から一世代後までにわたって掘りだしてきて、詩人というものを一応世間的にも通用するものとして押し出したのは、かれの惚れこみようと、目の確かさだった、といっても言い過ぎではあるまい。いまや現代詩の地図は目まぐるしく塗り替えられて、これらの詩人たちをも、ともすれば旧人の側に追いやりかねない勢いだが、伊達の仕残した仕事の意味は、そういう新旧世代の交替の中に埋没しさるものでもあるまい。このたび清水康雄君から、伊達夫人の快よい同意を得て第二次『ユリイカ』を創刊したいときかされたとき、私は乱世に一人の知己を得て心の温たまる思いがした。同君がかねがね、敬愛する故人の衣鉢をつぎたい意志を持っていたことを私は知っていたし、識見、経験、人と為りいずれの点から見ても、最もふさわしい人、と私には思われるからである。私もささやかな協力をしながら、この火を守り育ててゆきたいと願う。

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編集後記
 かつてのユリイカには、文学の自由と冒険があふれていた。詩の雑誌であったが、詩だけの雑誌ではなかった。
「日本の文芸雑誌は、文学の雑誌ではなく、小説の雑誌だ」とだれかが書いていたことを覚えているが、たしかに、詩や批評を主流とする欧米の文学雑誌にくらべれば、そのような感もないではない。
 ユリイカは、詩と批評を中心に、しかし、領域や形式にとらわれず、あくまで自由に、文学の自由と深淵をめざす雑誌でありたい。
 文学の深淵には、人間の死を喰べる神が寝そべっている。
 復刊第一号の編集をおえて目に浮かぶのは、やはり、亡くなった伊達得夫の姿である。伊達さんは飄々としていた。おそらく、いまも飄々としているのだろう。
 ユリイカの復刊は私の夢であった。(清水康雄)