ハアレツ紙/Last update - 02:33 14/01/2009
アミラ・ハス
歴史はカッサムロケットで始まったわけではない
歴史はカッサムロケットで始まったわけではない。だが、われわれイスラエル人にとって、歴史はいつでもパレスチナ人がわれわれを傷つけるときに始まる。そのため苦痛が、完全に状況から切り離されたものになってしまう。われわれはパレスチナ人に、もっともっと大きな苦痛をあたえれば、最後には彼らも教訓を学ぶだろうと考えている。ある用語でこれを「成果」という。
しかしながら、多くのイスラエル人にとっては、その「教訓」が抽象的なままだ。イスラエルのメディアはその消費者に、情報ひかえめ、真実ひかえめの、厳格な食事療法を処方している。軍司令部の人間とその仲間たちのことだけはたっぷり含まれた療法だ。それは慎み深く、自国が達成した成果を自慢することはない──つまり、殺害された子どもたちや、廃墟のなかで腐敗していくその遺体、自国の兵士たちが救急隊員を銃撃したため血を流しながら死んでいった負傷者たち、さまざまな型の武器によってひどい怪我をしたため脚を切断された幼い少女たち、打ちのめされて辛い涙を流す父親たち、跡形もなく消し去られた住宅地区、白燐による激しい火傷、そして小規模移転──自分の家から追い出された何千何万という人たち、そしてこうしているいまも追い出され、命令によって家屋密集地域へ押し込められ、その地域はさらに頻々と狭くなっていき、なおかつ絶え間ない爆撃と砲撃にさらされていること、それが達成した成果だ。
パレスチナ政府が樹立されてからというもの、イスラエルの広報活動装置は、パレスチナ人がわれわれに見せかける軍事的な威嚇の危険性をおおげさに強調してきた。彼らが石から小銃に、火炎瓶から自爆攻撃に、路上の爆弾からカッサムロケットに、カッサムからグラッドに、そしてPLOからハマスに移ったとき、われわれは大声をあげて「だからいったじゃないか。彼らは反ユダヤ主義者だって」といったのだ。かくして、われわれは凶暴な行動にでる権利を得たわけだ。
イスラエル軍の凶行を可能にしたもの──それを表現するための正確なことばが私の辞書には見つからない──それは、着実に進められたガザ地区の隔離だ。隔離はガザ住民を、名前もなく住所もなく、さらに歴史もない──武装した男たちの住所を例外として──抽象的なモノに変えた。シンベトの公安警察によって決定された日付は別として。
ガザ包囲は、ハマスがガザ地区の警備機関を掌握したときに始まったわけではない。それが始まったのはギラド・シャリット(イスラエル軍伍長)が拘束されたときでも、ハマスが民主的選挙によって選ばれたときでもない。包囲は1991年に始まった──自爆攻撃が開始される前のことだ。それ以来、包囲はさらに巧妙に洗練されたものへと変形されただけで、2005年にピークに達した。
イスラエル広報活動装置は手際よく、恥知らずに事実を軽視しながら、(ガザからの入植地)撤退を占領の終了であると発表した。隔離と封鎖は、軍事的必須事項だと発表した。しかし、われわれは成人した男女であり、「軍事的必須事項」と首尾一貫した嘘が、国家の目標に与するものであることを知っている。その目標とは、二国家解決案を巧妙に阻むことである。この解決案は、1990年、冷戦の終了時に世界がその実現を一度は期待したものだった。完全な解決案ではないにしろ、しかしパレスチナ人はそのとき、この解決案を受け入れる用意があったのだ。
ガザは、その隣にある、平和を愛する小国、イスラエルを攻撃する軍事力などではない。ガザは、イスラエルが1976年に、西岸地区ともども占領した一地区なのだ。そこに住む人たちはパレスチナ民族の一部であり、この民族がその土地と故国を失ったのは1948年のことだ。
1993年(オスロ合意)、イスラエルはたった一度、世界に対して、われわれについて語られていることは真実ではないと告げる、またとないチャンスを得た──つまり、イスラエルは生来の植民地国家ではないこと、一民族をその土地から追放し、人々をその家から追放し、ユダヤ人を入植させるためにパレスチナ人の土地を強奪することが、国家としての存在の基本でも本質でもないことを告げるチャンスを、である。
1990年代に、イスラエルは1948年がそのパラダイムではないことを立証するチャンスがあったのだ。ところがイスラエルはその絶好のチャンスを逃してしまった。代わりに、ひたすら、土地を強奪し、人々を住んでいる家から追放し、パレスチナ人を隔離した飛び地へと追い込んでいった。そしていま、この暗くおぞましい日々にイスラエルは、1948年は決して終わらないと立証しているのだ。
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