ハアレツ紙/Last update - 05:25 12/01/2009
アミラ・ハス
死者の統計数に入らないよう、最善をつくすガザ住民
昨日午前8時45分、ムスタファが電話をかけてきて、家を離れたという。8時10分、車を所有している、勇気ある友人に電話して、子どもたちを車に乗せ、北へ2キロ離れた、ガザ市近郊リマルにある義理の弟が借りたアパートへ連れていったのだ。義理の弟がそのアパートを借りたのは一週間前、ガザ市北端の自家から家族をつれて逃げだあとのことだ。ガザ市北端は爆撃、銃撃地帯だ。いまでは2部屋のアパートに15人が住んでいる。もちろん水はない。とにかく肝心なのは爆撃音が少しでも小さいことなのだ。
(爆撃が開始されて)15日がすぎて、シェイク・アジリーン地区へ戦車が入ってくるプレッシャーに彼らは耐えられなくなっていた。夜中、絶え間なくつづく銃撃音、海から撃ち込まれる迫撃砲。ヘリコプターからどさりと投げ出され、人々に家から出るよう呼びかけるパンフレット──それもまた神経を逆なでする。しかしなんといっても恐ろしかったのは、近くのアパート群に撃ち込まれたミサイルだ。近所の人が何人も殺され、そこにはヤセル・アラファトの公式フォトグラファーと、その一家も含まれていた。
昨日まで、ガザ市内の通りは逃げ出す人々でごったがえしていた──さえぎるもののない畑と農家のあるシェイク・アジリーン地区からも、人は逃げてきた。ハマス銃撃隊とイスラエル軍兵士のあいだの戦闘が起きている地区だが、その周辺の地区からも逃げてきていた。だれもが家財道具を運んで。
こうしてムスタファとその家族は、日増しに増加する、被退去者の統計数字に新たに加えられたわけだ。そのうち比較的少数の2万人が、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の学校へ避難し、それよりはるかに多くの人たちが、ガザ市、ラファ、ハーン・ユニス、ベイト・ハヌーン、そしてヌセイラト難民キャンプの、親戚や友人のところに身を寄せたのだ。
軍部は「人口密集地域」とされるエリアをじりじりと内部へ押し込めている。その周辺地区を「一掃しながら」──まず農地、そしていま農地の周辺の地区を──人々をさらに狭い領土へとどんどん追い込んでいるのだ。
死者をすべて数えあげることは難しい。しかし、家族全員が殺されたという報告はいくつもある。おなじ家族の人間が多数殺された例は、とりわけ住民が追い立てられた地区の周辺地区で多い。住民は死者の統計数に入れられないよう、全力を尽くしている。
先週の木曜日、午後3時40分、医療班が瓦礫のなかから4人の遺体を引き出した──そのうち3人が子どもだった──ベイト・ラヒヤの南西にあるアタトラ地区でのことだ。報告によると、4人は死後数日たっていた。金曜日の午後3時30分、無人飛行機がジャバリヤのファイズ・サルハの家に、警告のためのミサイルを撃ち込んだ。家族は、さらに大きな迫撃砲が2分後に撃ち込まれる前に、すぐに家屋から外へでることができず、家族6人が殺された。
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