年末の2日間、J・M・クッツェーの出世作『Waiting for the Barbarians/夷狄を待ちながら』を再読した。最初に読んだのは、キングペンギン版のペーパーバックで、『Life & Times of Michael K/マイケル・K』といっしょに2冊まとめて読んだときだから、ほとんど20年ぶりだ。
この小説は「帝国」と「夷狄/野蛮人」という二項対立で語られることが多いが、今回あらためて通読して、いくつも発見があった。そのひとつが、主人公である初老の執政官の、男としての性的欲望の描かれ方に関するものだ。『Disgrace/恥辱』の、やはり初老の主人公の場合のそれと、重なったり、ずれていたり。そうか、70年代後半(作家は30代後半)に書かれた作品ではこんな風だったのが、90年代後半(50代後半)ではああなるのか、と非常に興味深く読んだ。もちろん架空の帝国およびその植民地とポストアパルトヘイトの南アフリカという背景の違いも大きい。
再読のきっかけは、5、6歳年上のある男性作家から「最後の章は要らないのじゃない?」という問いを受けたことだ。そのときは返すことばに詰まった。質問の内容を作品に照らして具体的に考えるための情報が、私の頭のなかから消えていたからだ。いくら好きな作家の作品でも、20年前に読んだものの細部までは覚えていない。今回しっかり読み直して気づいたのは、終章は要らないどころか不可欠のもので、作品全体にくっきりとしたパースペクティヴをあたえていることである。それが確認できたのは大きな収穫だった。
物語の概要はこうだ。架空の帝国が支配権をもつ辺境の植民地(季節の移り変わりと月の関係からみて北半球を想定)で執政官を長年勤める主人公(名前はない)のところへ、夷狄の襲来を懸念する帝国の第三局(ロシアの秘密警察を想起させる)から、ジョル大佐という人物が派遣される。そして夷狄狩りが始まる。ジョル大佐率いる部隊に連行されてきた夷狄は、人間以下の扱いを受け、尋問され、拷問を受ける。
父親を殺され、自分も両足を潰され、視野も狂って、仲間に置き去りにされ、物乞いをする夷狄の娘を街から拾ってきた執政官は、自分の本来の職務は法と正義を行うことにあるはずだ──と、ジョルの行為や自分の立場をあがなうかのように、娘の足に油を塗り、撫でさすり、寝床をともにする。しかし性交に至ることがない。これまで女をつぎつぎと渡り歩いてきて何の疑問も持たなかった主人公は、そこで、自分の性的欲望について熟考することになる。
旅籠屋の女たちに対しては何の問題も生じない。女を「欲望することは彼女を掻き抱き彼女のなかに入ることを意味する、彼女の表面に穴を穿ち、その内部の静まりを掻き混ぜて恍惚の嵐を起こすこと、それから退き、終息し、欲望がふたたび結集するのを待つ。ところが、この女はまるで内部などないかのようで…」(p43)と作家は男の性的欲望について詳らかに言語化する。これはそっくり、新しい土地(いみじくも「処女地」などという語が使われたりする)に対して帝国が抱く野望や欲望と重なるもので、ある種のアナロジーとも読める。
主人公にも、褐色の肌の夷狄の女にも、名前があたえられることはなく、作中で名前があたえられるのはわずか3人。ジョル大佐、青い目のマンデル准尉(夷狄の娘を仲間に返してきた主人公を逮捕して拷問する)、そして旅籠屋の料理女メイである。料理女は最初登場したときは名前がない。その息子が獄舎の主人公に食事を運んでくる場面はあっても、母親のほうに名前があたえられるのは物語が終盤に入ってからだ。これは読んでいていささか唐突な感じさえする。それまで影のような、顔のなかった人物が突然、表情をもった固有の人物に変わって、主人公の前にあらわれるのだから。
しかし、このメイは最終章できわめて大きな役割をはたす。主人公の語りを「聞く相手」──相対化の視点を運び込む役──として、さらに、主人公にはついに聞き取れなかった「夷狄の娘のことば」を伝える者として登場するのだ。つまり、夷狄をめぐる嵐のような一年の出来事:ジョルの到来、夷狄の捕獲、娘の返還の旅、主人公の逮捕、さらなる夷狄狩り、拷問、ゲリラ戦で消耗した軍の破滅、大挙して逃げ出す住民たちのエグゾダス、残された少数の人々との暮らし──といったプロセスが、おもに主人公の内面で生起することば(幻想/妄想も含む)によって展開されるわけだが、その時間の経過を相対化する視点が、この終章で入るのだ。そのことで主人公の経験と、その結果彼に起きた変化が、ひとつの俯瞰図のなかにくっきり見えるようになる。
したがって、終章はまさにエピローグとして機能し、物語はクライマックスで終わることなく、頂点を冷静に見つめる視点で終わる。そして視界は一気に見通しがよくなるのだ。これはクッツェーのすべての作品にいえる、きわめて重要なポイントかもしれない。この章を読んでいて私はクッツェー作品を読む醍醐味を味わうことができた。
さらに思い出すのは、3部構成の『マイケル・K』をめぐる、あるインタビューだ。クッツェー作品の本質を考えるうえで示唆的なやりとりである。
第3部は不要ではないか、というインタビュアーの問いに対してクッツェーはこう答えるのだ。「この本が第2部だけで終わるなら、それは明らかに責任回避になります。この本から、Kが、天使として立ちあらわれないことが重要なのです」(FROM SOUTH AFRICA, Chicago Univ.,1988──p457)
この小説は「帝国」と「夷狄/野蛮人」という二項対立で語られることが多いが、今回あらためて通読して、いくつも発見があった。そのひとつが、主人公である初老の執政官の、男としての性的欲望の描かれ方に関するものだ。『Disgrace/恥辱』の、やはり初老の主人公の場合のそれと、重なったり、ずれていたり。そうか、70年代後半(作家は30代後半)に書かれた作品ではこんな風だったのが、90年代後半(50代後半)ではああなるのか、と非常に興味深く読んだ。もちろん架空の帝国およびその植民地とポストアパルトヘイトの南アフリカという背景の違いも大きい。
再読のきっかけは、5、6歳年上のある男性作家から「最後の章は要らないのじゃない?」という問いを受けたことだ。そのときは返すことばに詰まった。質問の内容を作品に照らして具体的に考えるための情報が、私の頭のなかから消えていたからだ。いくら好きな作家の作品でも、20年前に読んだものの細部までは覚えていない。今回しっかり読み直して気づいたのは、終章は要らないどころか不可欠のもので、作品全体にくっきりとしたパースペクティヴをあたえていることである。それが確認できたのは大きな収穫だった。
物語の概要はこうだ。架空の帝国が支配権をもつ辺境の植民地(季節の移り変わりと月の関係からみて北半球を想定)で執政官を長年勤める主人公(名前はない)のところへ、夷狄の襲来を懸念する帝国の第三局(ロシアの秘密警察を想起させる)から、ジョル大佐という人物が派遣される。そして夷狄狩りが始まる。ジョル大佐率いる部隊に連行されてきた夷狄は、人間以下の扱いを受け、尋問され、拷問を受ける。
父親を殺され、自分も両足を潰され、視野も狂って、仲間に置き去りにされ、物乞いをする夷狄の娘を街から拾ってきた執政官は、自分の本来の職務は法と正義を行うことにあるはずだ──と、ジョルの行為や自分の立場をあがなうかのように、娘の足に油を塗り、撫でさすり、寝床をともにする。しかし性交に至ることがない。これまで女をつぎつぎと渡り歩いてきて何の疑問も持たなかった主人公は、そこで、自分の性的欲望について熟考することになる。
旅籠屋の女たちに対しては何の問題も生じない。女を「欲望することは彼女を掻き抱き彼女のなかに入ることを意味する、彼女の表面に穴を穿ち、その内部の静まりを掻き混ぜて恍惚の嵐を起こすこと、それから退き、終息し、欲望がふたたび結集するのを待つ。ところが、この女はまるで内部などないかのようで…」(p43)と作家は男の性的欲望について詳らかに言語化する。これはそっくり、新しい土地(いみじくも「処女地」などという語が使われたりする)に対して帝国が抱く野望や欲望と重なるもので、ある種のアナロジーとも読める。
主人公にも、褐色の肌の夷狄の女にも、名前があたえられることはなく、作中で名前があたえられるのはわずか3人。ジョル大佐、青い目のマンデル准尉(夷狄の娘を仲間に返してきた主人公を逮捕して拷問する)、そして旅籠屋の料理女メイである。料理女は最初登場したときは名前がない。その息子が獄舎の主人公に食事を運んでくる場面はあっても、母親のほうに名前があたえられるのは物語が終盤に入ってからだ。これは読んでいていささか唐突な感じさえする。それまで影のような、顔のなかった人物が突然、表情をもった固有の人物に変わって、主人公の前にあらわれるのだから。
しかし、このメイは最終章できわめて大きな役割をはたす。主人公の語りを「聞く相手」──相対化の視点を運び込む役──として、さらに、主人公にはついに聞き取れなかった「夷狄の娘のことば」を伝える者として登場するのだ。つまり、夷狄をめぐる嵐のような一年の出来事:ジョルの到来、夷狄の捕獲、娘の返還の旅、主人公の逮捕、さらなる夷狄狩り、拷問、ゲリラ戦で消耗した軍の破滅、大挙して逃げ出す住民たちのエグゾダス、残された少数の人々との暮らし──といったプロセスが、おもに主人公の内面で生起することば(幻想/妄想も含む)によって展開されるわけだが、その時間の経過を相対化する視点が、この終章で入るのだ。そのことで主人公の経験と、その結果彼に起きた変化が、ひとつの俯瞰図のなかにくっきり見えるようになる。
したがって、終章はまさにエピローグとして機能し、物語はクライマックスで終わることなく、頂点を冷静に見つめる視点で終わる。そして視界は一気に見通しがよくなるのだ。これはクッツェーのすべての作品にいえる、きわめて重要なポイントかもしれない。この章を読んでいて私はクッツェー作品を読む醍醐味を味わうことができた。
さらに思い出すのは、3部構成の『マイケル・K』をめぐる、あるインタビューだ。クッツェー作品の本質を考えるうえで示唆的なやりとりである。
第3部は不要ではないか、というインタビュアーの問いに対してクッツェーはこう答えるのだ。「この本が第2部だけで終わるなら、それは明らかに責任回避になります。この本から、Kが、天使として立ちあらわれないことが重要なのです」(FROM SOUTH AFRICA, Chicago Univ.,1988──p457)