2016/09/23

ドストエフスキーについてクッツェーは

 クッツェーが二度目の来日をしたのは2007年12月だった。この年に出版された『厄年日記』の主人公が、スペイン語の名前であることは以前も書いた。フアンだ。作品内ではセニョール・Cとも呼ばれている。著書に Waiting for the Barbarians があるとされる72歳の作家でオーストラリアに住んでいる。この本の後半部にあたる「第二の日記」の最後を飾るのが「ドストエフスキーについて」という文章だ。そのひとつ前がバッハ。
 彼の最新作 The Schooldays of Jesus を読み、作品内にアロヨ(バッハ)やドミートリー、アリョーシャといった『カラマーゾフの兄弟』の名前が出てきたとき、驚きながらも、そうか、やっぱり、と思ったのだ。

 クッツェーにとってドストエフスキーが特別の存在であることは、彼の作品やエッセイを読み込んできた人にはわかるはずだが、なかでも選りすぐりの日本独自版エッセイ集『世界文学論集』(みすず書房)におさめられた「告白と二重思考」は圧巻だった。
 また、息子ニコラスの死を乗り越えるためにも書かざるをえなかった『ペテルブルグの文豪』(1994)の主人公はそのままドストエフスキーという名の作家だった。それ以外に、クッツェーがこの文豪について書いている文章はひとつしかない。ヨーゼフ・フランクのドストエフスキーの伝記、第四部 Miracurous Years に対する書評だ。これは2001年に出たエッセイ集 Stranger Shores におさめられている。

 クッツェーがドストエフスキーの作品をどのように読んでいるか、老作家フアンの口を借りて書いているのが次の文章だと思えばいいだろうか。これがまた、すごいのだ。フアンという作家の性格や年齢によって脚色され、こういう書き方になっているのだろうが、その底流にはクッツェー自身の本音もちらほら見え隠れして、どこまでが創作でどこまでが本音なのか、といつもながら興味がつきない。
 すこし訳出する。

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 昨夜、『カラマーゾフの兄弟』の第二部第五章*をまた読み直した。イワンが、神の創造した世界へ入るための入場券を突き返す章だ。堪えきれずに、わたしはすすり泣いてしまった。

これまで数えきれないほど何度も読んできたページなのに、それでも、そのページを前にするとその力に慣れるのではなく、むしろ以前にも増して自分がどんどん感じやすくなっていくのがわかる。なぜだろう? なにもイワンの復讐心に燃える考え方に共感しているわけではない。彼とは違い、わたしは政治的倫理への貢献でもっとも偉大なものはイエスによってなされたと考えるからだ。私たちのなかで、傷つき、腹を立てている者に、イエスが、もうひとつの頰をも差し出すよう促し、そうすることで復讐と報復のサイクルを断ち切るよう言ったときのことである。とするなら、なぜイワンのことばが、心にもなくわたしを泣かせてしまうのか?

 答えは倫理や政治とはまったく無関係、すべてはレトリックに関係している。許しを認めようとせずに長々と熱弁をふるうイワンは、恥知らずにも、自分の議論を進めるために感情(犠牲になった子供)や戯画(残虐な地主)を利用する。あまり説得力のない彼の議論の中身よりはるかに力強いのは、苦悩を強調する語調であり、それはこの世界の恐怖に耐えられない魂の個人的苦悩である。わたしを圧倒するのは、ドストエフスキーによって言語化されたイワンの声であって、彼の理屈ではない。

 あの苦悩の口調は本物だろうか? イワンは「本当に」彼が主張するように感じているのだろうか、そしてその結果、読者は「本当に」イワンの感情を共有することになるのか? 後者の質問に対する答えは厄介だ。答えは、共有する、だ。ここで人が悟ることになるのは、イワンのことばを聞いているときでさえも、彼が自分の言っていることを心から信じているだろうかと疑いながらも、自分も立ち上がって彼にならって入場券を突き返したいのかと自問しながらも、それはいま読んでいる単なるレトリック(「単なる」レトリック)ではないのかと疑いながらも、疑い、衝撃を受けながらも、キリスト教徒であり、キリストの従者であるドストエフスキーが、どうしてイワンにこれほど力強いことばを語らせることができるのか、なのだ──そのようなさなかにもまた、こう考える余地はある──すばらしい! ついにわたしは目の当たりにしている、至高の地における激しい戦いがくりひろげられているのだ! だれかに(たとえば、アリョーシャに)、言葉によって、あるいは例証によってイワンを論駁するためにそれがあたえられるものであるなら、キリストの言葉はそのときこそ、永遠にその正しさが証明されるだろう! それゆえ人はこう考える、栄光の(スラヴァ)、フョードル・ミハイロヴィチ! あなたの名が永遠に名声の殿堂に鳴り響かんことを!

 そして人は、ロシアに、母なるロシアにもまた感謝する、そのような異論の余地なき確かさで、われわれの目の前に、真摯な小説家なら誰しも骨惜しみせずに到達すべく努力しなければならない水準を設置したということに。たとえそこへ到達するには千載一遇のチャンスしかないとしても。それは、一方に文豪トルストイが、他方に文豪ドストエフスキーがいるという水準である。彼らを模範とすれば、より良き芸術家になれる。より良きというのは、技巧に長けているという意味ではなく、倫理的に優れているという意味だ。彼らは人の不純な虚勢を消し去り、視界を澄明にし、腕の力を強化するのだ。⭐︎


*「プロとコントラ」の章:米川、池田、原、亀山各氏の訳を読み比べてみた。勢いをつけて、わ~っと読めたのは新訳で、日本語の移り変わりの早さをあらためて思い知らされた。