Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2016/07/29

木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

「野良ビト」と聞いてドキッとした。ついに! 野良へ出て働く人たちが登場するのか、農の人たちが出てくるのか、と思ったのだ。でもそれは、わたしの勘違いだった。

「野良」とはこの場合、「野良ネコ」というときの野良だ。野良ネコは飼育されていないネコのことだが、野良ビトは定住しないヒト、定住地をもたないヒト、現代における狩猟採集的なノマド生活をする、せざるをえない窮状へ追い込まれた人たちのことだった。

 この語は作品に一度だけ出てくる。都会の河川敷を宿泊地とする、いわゆるホームレスのことをさす蔑称として、裕福だが隔離されて暮らす子供の口から、たどたどしく吐き出されるのだ。弓矢で野良猫を射殺す子供だ。従順に飼い馴らされて、しかし、人間としての感性や心情がおよそ不完全な発達を余儀なくされていく子供の(未来の大人の)影を背負っている。ゲートシティと呼ばれる「安全」と「安心」の幻想によって、壁のなかに自分たちを囲い込んで生きている、1パーセントの富裕層の生まれだ。

 物語は数年先のオリンピックを目前にした多摩川下流の河川敷らしい場所が舞台だ。リアルな暮らしが活写されていて、読ませる。

 終盤になって突如、驚愕の一人称が出てくるところで、J・M・クッツェーの『敵あるいはフォー』を思い出した。行間の裂け目から異物のようなものが噴出してくる。こじんまりと「小説」という形式内に収まりきらない何か、この整然とまとまらないところが、作品のあつかうテーマそのものと拮抗しているようにも思える。

 読み終わってあらためて考えたのは、「野良」という語には、飼い馴らされていない=untamed という意味も含まれていることだ。ヒトが「再野性化」する、という語も連想される。制度となった「ガッコウ」という檻から、自らを解放すること、生き物としての感性を取り戻すこと。

 究極の「野良ビト」を主人公とする『マイケル・K』を3度も訳した者として、「野良に出る」がいま新たな意味を持ち始めているのかもしれない、と納得した。