Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/04/15

クッツェー『Disgrace/恥辱』のソラヤとは誰か?(2)

クッツェーのDisgrace に最初に出てくるソラヤという女性とは、いったいどのような背景をもった人間なのか? それを考えることは、クッツェーがこの作品の冒頭にあえてソラヤを置いたことの意味を考えることでもあるだろう。ソラヤとの関係が主人公ルーリーのものの見方、感じ方、歴史に対する立ち位置を、くっきりと浮上させる役割をはたしていることにバデルーンは注目する。そのことの意味が、作品のその後の展開のなかで具体的に問われていくのだと。

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 グレアム・ペチーが示唆するのは、クッツェーのいくつかの小説においてさえ「現実的にも時局的にも突き止められのは・・・われわれが・・・斜めに、プリズムを通してあいまいにものを見ている」ことなのだ。わたしは、ペチーの指摘とは、強調されたパターンの感覚や小説内で明示される歴史への覚醒に注意しろ、ということだと理解している。Disgrace が露呈するのは、セクシュアリティの植民地的言説の遺産や、その搾取と暴力の長い記録に対する鋭い覚醒意識なのだ。ここには、クッツェーの「植民地的ホラーファンタジー」というコメントが示すように、白人の性的トラウマが強調される一方で、黒人の身体への暴力、とりわけ黒人女性の身体への暴力を常態とするやり方も含まれる。
 
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以下は、もうすぐ出る『鏡のなかのボードレール』に著者の許可をえて詳しく引用してありますので、ぜひ、そちらを!