Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/04/14

クッツェー『Disgrace/恥辱』のソラヤとは誰か?(1)

24日に国立の一橋大学で開かれるハベバ・バデルーンの公開レクチャーが近づいてきた。
 その予習のため、彼女の著書『眼差すムスリム』のなかの一部「ケープ植民地における性をめぐる地理学:Disgrace」(p90-93)を少し紹介する。この部分を読んで、南アでは激しい賛否両論を巻き起こした作品『Disgrace』の、巻頭に出てくる女性ソラヤの人種的、社会的、歴史的背景がこれまでにないほど、くっきりとした視界で理解できるようになった。
 クッツェー自身はこの作品を書き上げてから、最後の最後に巻頭部分を新たに書き直した、と言われている(カンネマイヤー、アトウェル)。それがどういう結果を生んだのか、その手法や意図などがバデルーンの著書を読むと、具体的に、詳細に明らかになるのだ。この作品を「読む」とき、これはなかなかの事件である。

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暴力にさらされることを前提としたある身体を、視覚的にマーキングすることには「長い歴史」があり、これは、初の自由選挙が実施された1994年から5年後に出版された J・M・クッツェーの小説 Disgrace にもまざまざと再現されている。 

 そしてある土曜日の朝、すべてが変わる。彼は仕事で街に出ていた。セント・ジョージ通りを歩いていたとき・・・
 ほんの束の間、ガラス越しに、ソラヤの目が彼の目と合う。彼は常に都会の人間であり、エロスが獲物を追い詰め、一瞥が矢のように閃く大勢の身体の流れのなかで、くつろいだ気分になれる。だが、彼とソラヤのあいだで交わされたこの一瞥を、彼はすぐに後悔する。(p6)
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以下は、もうすぐ出る『鏡のなかのボードレール』に著者の許可をえて詳しく引用してありますので、ぜひ、そちらを!