Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2015/04/25

5月1日、ハベバ・バデルーンの詩の朗読会

 昨日はハベバ・バデルーンの公開レクチャーを聴いてきました。じつに内容の濃い、充実した時間でした。教室に入り切らないほど大勢の人がやってきて、隣の教室からたくさん椅子を運び込んでのレクチャーでした。すごい熱気で、いやもう時のたつのをすっかり忘れました。
 予習はしていったものの、そうか、そういうことだったのか、と膝をうつこともあって、J・M・クッツェーやベッシー・ヘッド、マジシ・クネーネやゾーイ・ウィカムまで訳した者としても、もっとも見えなかったいわゆる「ケープ・マレー」と呼ばれる人たちの複雑な歴史的パースペクティヴや、「カラード」とか「カフィール」とか、日本語の辞書には載っていない複雑なことばの背景が、とてもクリアになったのは大きな収穫でした。

 南アフリカにおける、いや、南部アフリカにおける、というべきでしょうか、17世紀以降のあの地域の政治経済が「奴隷制」によって支えられてきたことは、意図的に歴史認識の後ろにおいやられ、忘れ去られてきた。そのプロセスを、バデルーンはさまざまな研究や例証をあげながら解きほぐしていきます。アパルトヘイトからの解放後、そこが最も複雑で忘却の波におしやられがちなところ。この「奴隷制」というのが、結局は、近代の植民地経営には欠かせない人間支配のシステムであったことをあらためて認識しました。

 そして、このシステムは現在も「格差」と言い換えられ、あらたな姿に変身しながら「不平等システム」となって、グローバル経済のあちこちで大きな力をもっているのではないか、ということも考える必要があるようです。歴史的健忘症は、そこから利を得る者たちの「意図的な政策」であることを深く認識したいものです。そこに絡んでくる大きな問題、それがジェンダーなのだということも。
 だから「忘れないこと」「記録すること」「伝えること」がどれだけ重要か、たかだか20年前まで続いたアパルトヘイトの記憶すら若い世代には、なかなか伝わっていない時代です。

 この国もまた、「70年」という長い眠りから覚めなければならない時期に至っています。「人種」はクリエイトされたもの、白人が創造した「ファンタジー」だった。そう喝破するバデルーンの言は爽快! そう、「名誉白人」だって「ファンタジー」だったのです。いまだにそれを「名誉」だとして内面化するところが、偏狭的ナショナリズムと表裏一体となって機能することを考えなければ、とも思いました。

 さて、詩人であるハベバ・バデルーンの詩の朗読会があります。南アフリカで生れて育った彼女のプロフィールを彷彿とする詩が、たっぷり聴けることになるはずです。そうそう、彼女は大学時代ジョン・クッツェーの学生だったとか。あの激動の1990年代初頭のことですね。

 5月1日(金)18:30 - 19:30
   一橋大学 佐野書院 サンルーム
   使用言語は英語です。

(ひょっとすると、わたしも飛び込みで詩の朗読することになるかもしれません!)