2014/11/30

J・M・クッツェー、自伝、そして告白

J・M・クッツェーがまた千里靴をはいたみたいだ。今度はロンドンのオクスフォードへ。12月2日。なにをやるの? これです。お近くの方はぜひ!

J. M. Coetzee, Autobiography, and Confession



ミシェル・ケリーという世界文学の教師が、クッツェーとサンドイッチを食べながら気軽に、自伝や、告白調のクッツェーの作風について語るのだとか。いやいや、これは聴きたいな。
 ミシェル・ケリーさんって、あれ、アデレードに来ていた人ですね。そうだ、あの、テラスで植木鉢を・・・

2014/11/29

数日前に「現代詩年鑑 2015」が届いていたのだ

朝から曇りのお天気で、すっきりしない。体調もすっきりしない。ついに、アデレード・ハイが切れてきた。

 だいじょうぶかなあ、と家族からさんざん心配されながら、11月初旬、ひとりでオーストラリアのアデレードまで行って、帰ってきて、へたると予想されていたのに、逆にハイな状態で突っ走ってきて2週間。
 ついに昨日あたりから、切れてきたのだ、アデレード・ハイが。笑うしかないな、これは。今日は外出は不可だ。行けずに残念な催しがあるのだけれど。


 アデレードのホテルで「現代詩手帖」編集部のFさんから嬉しい連絡を受けたことは前にも書いた。その「現代詩年鑑2015」が数日前に届いていたのだ。「──JMCへ」という献辞のついた「ピンネシリから岬の街へ」が入っている。嬉しいことはさらに重なり、「今年度の収穫」に須永紀子さんが『記憶のゆきを踏んで』をあげてくださった。

 須永さんの新しい詩集『森の明るみ』はすてきな詩集だ。粒ぞろいのことばたちが、手で触れそうなほどの確かさでならんでいる。アデレードから無事に帰還して、じっくりと読んだ。カバーの絵もまたいい。

2014/11/26

LATINA12月号に書評が

 J・M・クッツェーの自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』の書評が掲載されました。

 雑誌「LATINA 12月号」です。

 評者は寺本衛さん。とにかく、熱い評です。Muchas gracias!  とスペイン語で言ってみるには、最適の媒体です!
 ぜひ、ぱらぱらとっ!

2014/11/23

Barbarians の訳は「夷狄」でいいのか?

 11月11日から3日間、アデレードで開催された「Traverses: J.M.Coetzee in the World」というイベントのハイライトは、やはりアデレード大学構内にある旧い建物エルダー・ホールで行われた作家自身の朗読だった。建物のなかに入ると、ステージの奥にはパイプオルガンがあって、そこが教会であることが分かる。エルダーというのだから「長老派」だろう。この催しだけが公開だったため、早くから大勢の人たちが詰めかけていた。

 アデレード大学の副学長の挨拶につづいて、シカゴ大学の哲学教授、ジョナサン・リアの「Waiting for the Barbarians/夷狄を待ちながら」をめぐる基調講演があった。これが興味深い内容だったので、わたしの耳が拾った部分を中心に少し書いておきたい。

ジョナサン・リアはクッツェーがノーベル賞受賞の知らせを受けたときいっしょにいた彼の長年の友人で、そのときのエピソードにも今回ちらりと触れれて、場内をなごませていた。
 ノーベル財団がクッツェーに連絡を取ろうとしたが、本人はそのときシカゴ大学で教えていたので、ケープタウンにはいなかった。財団側から連絡を受けたシカゴ大学の誰かが、リア教授の電話番号を教えてしまったので、それからが大変。彼の電話がひっきりなしに鳴りつづけた。知らせの前夜、リア教授夫妻はジョンとドロシーと4人でディナーを共にしたところだった・・・といった、すでにそこにいる大方の人たちが知っているエピソードではあったけれど、直接ご本人から聞くと、そうだったなあ、と感慨深かった。(2枚目の写真:クッツェーとジョナサン・リア)

 さて、重要なのはそんなことではなく、リア教授の『Waiting for the Barbarians』の読みに対する問題提起なのだ。この作品は一般に、架空の土地を舞台にした時代も不特定の小説、として読まれることが多いが、それは違う、とリアは言うのだ。注意深く読んでみると(Read carefully! はクッツェー本人がくりかえし発言していることば!)、作品冒頭にはちゃんと年代が書き込まれている、決め手は第三局からやってきたジョル大佐がかけていた眼鏡である、と言うのだ。では、この作品の書き出しを見てみよう。

 "I have never seen anything like it: two little discs of glass suspended in front of his eyes in loops of wire. Is he blind? I could understand it if he wanted to hide blind eyes.  But he is not blind. The discs are dark, they look opaque from the outside, but he can see through them.  He tells me they are a new invention."

「そんなものは見たことがなかった。彼の両眼のすぐ前で、二つの小さなガラスのディスクが、環にした針金のなかで浮いている。彼は盲目か? 見えない目を隠したいというなら分かる。だが彼は盲目ではない。ディスクは黒っぽく、はたから見れば不透明だが、彼はそれを透してものが見える。新発明なんだそうだ」

 ここで言われているのはもちろんサングラスのことだが、その語は使われていない。行政官はジョル大佐から「新発明」との説明を受ける、と書かれているところに注目すべきだとリアは語った。サングラスの発明は20世紀に入ってからの出来事だ。だからこの物語にはしっかり時代が書き込まれているのだと。(追記:われわれの二代、三代前の祖先の時代と読めるではないかと。)もうひとつ、この作品は dreamlike と言われることがあるが、dream ではなくあくまでdreamlike なのだ。一見「夢のように」場所や時間が特定しにくいことが重要なのだ。なぜか?
 (と、ここからは私見だが)この作品が発表された1980年はまだ南アフリカには厳しい検閲制度があり、検閲官がちくいちテクストを読み、発禁にするかどうかを決めた。その厳しさは『In the Heart of the Country/その国の奥で』が通常なら1人の検閲官が審査するところ、3人もの検閲官によって詳細に査定された事実からも明らかだ。(それについてはここに書いた。)当然ながら、次に発表された「Barbarians」は作家自身も検閲を念頭において書いている。だが、架空の、無時間の作品と見せかけながら作者は最初のページに時代をくっきりと刻み込んでいる、そこに注目すべきだ、というのが今回のリアの指摘だったと理解できる。

 リア教授の講演を聴きながら(もちろん全部理解できたわけではないが)、ある疑問がふつふつとわいてきた。Barbarians を「夷狄」と訳したのは、はたして適切な訳語選択だったのか、という疑問だ。「夷狄」とは19世紀までの中国で、漢民族を中心とした中央勢力から見た外部民族への蔑称とされる語だ。したがって「夷狄」と銘打たれた小説を読む者は、否応なく19世紀以前の時代へと導かれ、物語の舞台として東アジアのある地域を想定して読むことになる。
 リアの指摘に沿って考えるなら、それでいいのか? という疑問を抱かざるをえない。古典の翻案ではないのだ。同時代作家の新作の翻訳の場合、これは妥当なことか? リアの指摘からすれば、Barbarians は文字通り「蛮族」と訳すべきだったのかもしれない。しかし邦訳の出た1991年、あるいはノーベル賞受賞後に文庫化された2003年、日本語読者は「夷狄」という聞き慣れないことばに耳をそばだて、関心を持った、という事実もまた否定できない。だからこれは、ひどく悩ましい問題提起とならざるをえない。
 しかし、さらに考えてみる。現在はクッツェー作品が詳細に論じられ、3度の来日もあって、彼の名は一般にも知られるようになった。同時代をともに生きる作家の意図をあたうるかぎり伝えることこそが訳者、編者に求められる姿勢だとするなら、「夷狄」は訳語としてこのままでいいのか、という問いはやはり残る。悩ましい。

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2014.12.21追記:YOUTUBEにアップされたリア教授の講演を再度聴いたあと、上記の内容に少し加筆した。記憶だけで書き、少し誤解も混じっていたので訂正した。リア教授は、この作品が発表された当時のニューヨークタイムズの書評を批判しながら、この物語をアパルトヘイト下の南アフリカの出来事としてのみ読むのではなく(つまり遠い国の自分たちとは関係のない物語として読むのではなく)、読者が自分の住んでいる土地の近過去の歴史として読むことも可能な物語なのだと述べている。
 彼の住むアメリカ合州国という土地で考えるなら、当然「蛮族=ネイティヴ・アメリカン」という置き換えになるだろうか。では、日本では? 蛮族=蝦夷、いやいや、現在はむしろ海の向こうの外敵としての・・・?
 そのように読者の心理に深く働きかける「可能性」を秘めた作品である、とリア教授は論じている。であるとすれば、やはり、「夷狄」よりもう少し抽象的な語が選ばれるほうがいいのかもしれない。やっぱりこれは悩ましい。

2014/11/20

ピンネシリから岬の街へ──JMCへ

 アデレードに着いたとたんに目に入った樹木、それはジャカランダだった。もう花の盛りはすぎてはいたが、若葉の季節にまだ美しい色合いを見せていた。左の建物はアデレード大学構内にあるエルダー・ホール。内部は教会で、イベント初日の夜にJ・M・クッツェーの朗読会が開かれたところだ。

 アデレードに向かって出発する前の一週間は、なぜかシーンと静かだったメールボックスが、10時間あまりのフライトのあとホテルに着いてPCをセットアップした途端に、新着メールがいくつも届いていて驚いた。そのなかに詩集『記憶のゆきを踏んで』の一編「ピンネシリから岬の街へ」を今年の「現代詩手帖年鑑」に入れたいというメールがあった。
 詩のタイトルの裾に「──JMCへ」と入っている通り、これは1960年代にケープタウンからロンドンへ渡った青年ジョン・マクスウェル・クッツェーに捧げる詩なのだ。詩集を2日後にクッツェー自身に手渡す予定だったのだから、まさに good timing! 

 もちろん作家は日本語が読めるわけではないけれど、でも彼は若いころ中国語を学んでいるため、漢字はある程度読めるのだ。
 翌日は、初夏のアデレードの青紫のジャカランダの花びらをながめながら街を歩いた。オーストラリアはアジアに近い。アデレード大学構内にあるのは、教会ばかりではない。こんな孔子像も立っていたのだ。

2014/11/19

ドキュメンタリー映画「TOKYO アイヌ」

 昨日は明大前まで出かけた。アデレードから帰ってきて初めての外出。1.5時間の時差にすっかり馴染んでしまい、朝早く目が覚める。その分、夕方から夜にかけて、早く眠くなる。

 でも、出かけた。だって、畏友、中村和恵さんがコーディネーターをする映画会だもの。もっと早く宣伝すればよかったけれど、行って、観て、ゲストである宇梶良子さんのお話を聴いて、やっぱりこれは書いておきたい、と思った。おそらくまだまだどこかでこの映画が上映される機会はありそうだから。ドキュメンタリー映画「Tokyo アイヌ」。淡々と語られることば、流れる映像。
 こういう映画がいまの大学や大学院の授業で上映されて、ゲストにアイヌのヒトがやってきて話をしてくれて、会場からは活発な質問や意見が出て、という展開はまだまだたくさん必要なことだと思う。

 わたしが生まれ育った1950年代から60年代にかけての北海道は、いま思うと「アイヌを滅びたことにしてしまう風潮」がきわめて根強い時期だった。そのことがどれほど disgraceful な/恥ずべきことか、身にしみて理解したのは18歳のとき東京に出てからだった。それから長い時間が経ってしまった。

 あらためて言うまでもないことだけれど、「アイヌ問題」などという表現はまるでアイヌのヒトに問題があるような印象をあたえてしまって不適切きわまりない。問題があるのはむしろ「和人/シャモ」である日本人のほうなのだということを肝に銘じたい。ワジンと呼ばれる側の人間こそが問題行動をしてきたことを深く認識しければいけないのだ。

次第に変わってきたとはいえ、まだまだ根本的な認識は変わらなければならないだろう。それを昨日の映画会でもあらためて確認したのはとても良かった。そして気づいたことは、ゲストである宇梶良子さんのことば、「あなたのすぐ隣にアイヌはいます」だった。
 首都圏には大勢アイヌの人たちが暮らしている。その理由は、わたしが片田舎から大都市東京に出てきた理由とそれほど大きな違いはないのかもしれない。

 それにしても右上の刺繍がすばらしい。映像でしか見ていないけれど、実物はこの上にものすごい目をした迫力の梟がいるのだ。映画にも出てくる。昨日のゲスト、宇梶良子さんのお母様、宇梶静江さんの作品だという。

2014/11/16

家に帰ったら、書評『往復書簡集』by 都甲幸治氏が届いていた

初夏のアデレードから、気温が2度の成田に、今朝6時に到着しました。さすがにくたびれました/笑。でも家に帰り着くと、オースターとクッツェーの往復書簡集の書評が掲載された週刊読書人(11月14日付)が届いていた。しっかり読み込んでくれた都甲幸治さんの書評でした。正直、とても嬉しいです。

 それにしてもシドニー空港は聞きしに勝る迷宮ぶり。アデレード空港は広々として、のんびりした、良い意味で田舎の空港でした。ところが、1時間半ほどで着いたシドニーは、掲示板がまったくもって親切ではなく、トランジット客は乗り継ぎのため次にどこへ行けばいいのか、ちんぷんかんぷん。ここだ! というから並んでみたらそこはチェックインカウンターだったり(すでにアデレードでチェックインはすませている!)、バスに乗れ、というから乗ったら延々と暗い空港の敷地内を走るバスはどこへ行き着くのかだんだん不安になってくるし、着いた建物ではエスカレーターが動かない。しかたなく荷物を持ち上げて階段を登った。いやホントにくたびれた。

 搭乗ゲートがまたよく分からなくて、こういうとき、どういうわけかわたしには必ず反対方向へ歩き出してしまう癖があって、今回もふたたび/涙。万歩計をつけていけばよかった、いったいどれくらい歩いたんだろう。そうやってうろうろしながら、ついに搭乗ゲートにたどりついたら、娘さんを訪ねた帰りにアデレードからおなじ便に乗っていた、わたしとほぼ同年代の日本人女性と出会った。彼女は空港の外へ出てしまい、もう入れない、と言われて泣きたくなったとおっしゃっていた。どうしても日本に帰りたいのですが、とスタッフに言うと、親切にあれこれ教えてくれて、ここまでなんとか辿り着いた、と。迷宮=シドニー空港。
 写真は到着した日のアデレード空港。シドニーでは写真を撮る余裕がまったくなかった/涙。
 

2014/11/13

往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』書評 by 小野正嗣さん

小野正嗣さんによる、クッツェーとオースターの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』の書評です。共同通信の配信で、沖縄タイムス、北日本新聞・南日本新聞・中國新聞・山梨新聞・岩手新聞・愛媛新聞・熊本日日新聞・東興日報などに掲載されたようです。

小野さん、どうもありがとう。隅々まで深く読み込んで本の魅力を伝えてくれる、とても嬉しい評です。いまアデレードにいますので、この書評についてクッツェーさんにも伝えたいと思います。Muchas gracias! 

2014/11/09

アデレードで出会う南アフリカ産のブレスレット


今日は陽射しの強い通りを行ったり来たりしてくたびれた。

 くたびれついでにふらりと入ったお店で、おや、これは良い、と思って手に取ったモノは、なんと、made in South Africa だった。
 最初は、アメリカ大陸の先住民の人たちの模様かと思ったのだけれど、よく見るとコーサのビーズ細工の模様かもしれない、と思い至る。


 グアテマラやフィリピン、ヴェトナムなどのクラフトも扱っている、そのこじゃれたお店は、ノーステラス大通りから一本南に入る路地に面していた。知る人ぞ知る、その名もおなじみ Oxfam です。説明熱心なおばちゃんが切り盛りしているお店だ。もちろんアボリジニのクラフトを写真に撮った、美しいカレンダーも買いました。


 空腹を抱えて、もうどこでもいいや、テキトーに腹ごしらえしよう、と思って入った店で、これまたテキトーに説明きいて注文したら出てきたのがこれ! いや、びっくりしたのなんのって。だって小型の肉切りナイフがパンの上から、ブッ刺してあるんだもの。肉の国、オーストラリアだ。ひえ〜〜っ!
 半分に切って食べ、残りはテイクアウェイいたしました。ここじゃ、テイクアウトじゃなくって、テイクアウェイって言うんだね。

2014/11/08

アデレードに到着

アデレードに着きました!

 昨日は30度、今日は20度といった激しい温度差です。空港からホテルまでのタクシーから見た樹木は、どんよりと曇った空の下で埃っぽい空気に包まれて、すっかり萎れていたけれど、さっきぱらついた雨のせいで、緑が鮮やかさを取り戻したみたい。

 さて、ちょっと街へ出て・・・と。土曜日なので歩行者天国みたいなのをやっていて、家族連れがいっぱい。大道芸もいっぱい。この街の建物は黄土色か茶色の煉瓦づくりが多い。なんだか こんがり焼けたビスケットやクッキーを思わせる。


 ちょうどジャカランダが咲いている。花の盛りはやや過ぎて、はなびらが地面にたくさん落ちている。アデレードのジャカランダは、しかし、 南アフリカのジャカランダよりブルーが強いようだ。


 昨夜は機内。ほとんど寝てないので、今夜は爆睡かな。

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真夜中の付記:眠くなったので8時過ぎに、小学生なみに早々と寝たのはいいが、ぐっすり眠って目が覚めたら、「朝!」ではなくて「真夜中!」だった。土曜の夜。ホテルは結婚式パーティのあとらしく人びとの喧噪が廊下に響く。窓からは異容なほど「堂々たる」といった感じのアデレード駅が見える。人影は少ないが、車の往来は絶えない。

2014/11/06

わたしの父 ── クッツェー『厄年日記』より


 クッツェー作品には、ほとんどいつもといっていいほど頻繁に、親子の関係が書き込まれる。母と息子/娘、父と息子/娘、これはなにを意味するのだろう? 三部作を訳了したいま、このことを考えてみるために、以前、試訳した「わたしの父」をアップすることにした。

わたしの父  ──『厄年日記』(第二の日記、03)より 

 ケープタウンの保管場所から最後の荷物が昨日とどいた。おもに引越荷物に入りきらなかった書籍と、破棄する気になれなかった書類だ。
 そのなかに、父が三十年前に死んだときにわたしの所有物となった、ちいさなダンボール箱があった。いまもラベルが貼られたままだ。父の遺品を詰めた隣人が書いたもので、「ZC││抽き出しの中身」とある(訳註/ZC=ザカライアス・クッツェー)。箱には第二次世界大戦中の一時期、彼が南アフリカ軍に従軍してエジプトやイタリアに行ったときの思い出の品々が入っていた。戦友たちと映った写真、記章、勲章、書きはじめてはみたが二、三週間後に中断されて再開されることのなかった日記、遺跡(大ピラミッド、コロッセウム)や風景(ポー谷)の鉛筆画、それにドイツ軍がプロパガンダ用にまいたビラの数々。箱の底には晩年に書き散らした紙片があり、新聞の切れ端にことばを書きなぐったものが含まれていた ──「なんとかならんのか、おれは死にかけてる」。
 人生にごくわずかなものを求め、ごくわずかなものしか受け取ることのなかった男が残した遺稿(ナーハラース)だ。根っから勤勉ではない ── 最大級に優しいことばで「気楽な」── 人間が、それでも中年からは諦観の境地で、代わりばえのしない単調な骨折り仕事をつぎつぎと渡り歩いた男。アパルトヘイト制度が保護し、恩恵をあたえるべく構想した世代の人間でありながら、そこから彼が得たものはきわめて僅か! 最後の審判の日に、奴隷酷使者や利益搾取者を待ちうける地獄に彼を追いやるには心を鬼にしなければならないだろう。
 わたしのように彼もまた、軋轢、激発、怒りを顔に出すことを嫌い、だれとでもうまくやろうとした。彼がわたしのことをどう思っているか、話してくれることはついになかった。だが心の奥では、高く評価してはいなかっただろう、わたしにはわかる。自分勝手な子どもだ、それが冷たい人間になった、そう思っていたにちがいない、それをわたしは否定できるだろうか?
 とにかく、彼はこの形見の入った、あわれなほどちっぽけな箱へと縮んでしまい、そしてここに歳をとるばかりの保管者、わたしががいる。わたしが死んだら、だれがこれを取っておくのだろう? この品々はどうなるのだろう? それを思うと胸が締めつけられる。

 第一作目の『ダスクランズ』の前半部には、ヴェトナム戦争の心理作戦計画の立案にたずさわる若いユージン・ドーンなる人物が出てくるが、彼には妻マリリンとのあいだに5歳の息子がいる。精神に異常をきたしはじめたドーンは、その息子を連れて逃亡する。物語は独房内のドーンのことばで終る。そこにはちらりと「ヴァンパイアの翼を広げる」母親のイメージが出てきて、これについてはまだ全然書いていない、なんていってるが、すでにここには母と息子の愛憎にみちた関係を暗示する不穏なことばがしっかり書き込まれていたのだ。

 二作目『その国の奥で』では、南アフリカの奥地の農場を舞台に娘マグダが父親を殺す場面が出てくる。これはつい最近、クッツェー自身の手になるシナリオが本になったばかり。
 三作目の『夷狄を待ちながら』には直接的な親子の場面はないけれど、その次の『マイケル・K』は、31歳のマイケルが病んだ老母アンナを古い農場へ連れて行く、という設定。さらに『フォー』は、気丈な女性、スーザン・バートンが消息不明になった娘を探す旅に出るというものだ。次の『鉄の時代』はガンの再発を宣告されたミセス・カレンが渡米した娘に書き残す手紙、という枠組みのなかで物語は展開される。『ペテルブルグの文豪』は紛れもない文豪ドストエフスキーが息子パーヴェル(妻の連れ子)の死をめぐって懊悩する物語だし、ヒット作『恥辱』は旧体制の価値観から抜け出せない大学教授の父デイヴィッド・ルーリーと、新体制のもとでなんとか細々と農場暮らしを切り開こうとする娘ルーシーの物語だ。

 もちろん『少年時代』『青年時代』『サマータイム』といった自伝的三部作には、作家自身のヒストリーとして、現実的なモデルとしての父と母がつねに顔を出す。
 オーストラリアへ移住してからの作品にもまた、なんとなく影は薄くなるけれど、親子のイメージはくり返される。『遅い男』には、独り身の主人公ポールが思いを寄せる家政婦マリアナにはドラゴという息子がいて、彼の教育費をポールが援助しようとする話が出てくるし、最新作『イエスの子供時代』にも、架空の土地に、記憶を消されて船で移民した男シモンと5歳の男の子ダビッドという疑似親子が登場する。
 
 ここにアップしたのは『厄年日記/Diary of a Bad Year』(2007)の後半に含まれている断章だ。『少年時代』や『サマータイム』に登場する父親ザカライアス・クッツェーの話と思われる。30年前に死んだとあるが、事実1988年没だから史実とほぼ一致する。書いているのは JC という72歳の作家で、『夷狄を待ちながら』という作品を書いた南アフリカから移住してきた人物だ。
「J」が「フアン」の頭文字であることは作中で明らかになるが、これはジョンのスペイン語読みだ。作家と書き手がまたまた微妙にダブる仕掛けになっているのだ。作家クッツェーはこの作品を書いているとき、すでにスペイン語世界の入口に立っていたことがあらためて分かる仕掛けだが、断章自体はもっと切実な何かを暗示してもいる。老父への追想が胸をしめつけられる思いとして書き留められているのだ。思えばこれは、クッツェーが二度目の来日をする直前に発表した作品だった。

2014/11/04

A LUTA CONTINUA!──ひさびさにミリアム・マケバ

あちこち見ていたら、こんな動画に行き当たった。いま聞いてみると、懐かしい。



A LUTA CONTINUA!  (ポルトガル語で「闘いは続く!」)

 長いあいだアパルトヘイト時代の故国南アフリカへの帰還がかなわなかったミリアム・マケバ。その若々しい歌声を聴いていると、モザンビーク、サモラ・マシェル、フレリモ、マプトといった名前が出てくる。ポルトガル支配からの解放闘争を戦っていた土地、人、組織の名だ。
 シンプルな歌だけれど、ナミビア、南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、アンゴラ、ボツワナといった南部アフリカの土地の名前も出てくる。いまはみんな独立国になったそれぞれの土地で、A LUTA CONTINUA! 闘いは続く! とママ・アフリカが歌ったのは、たぶん、1975年前後だったろうか。なんだか励まされるな。
 
 いま調べてみると、この標語 A LUTA CONTINUA! はジョナサン・デミ監督の映画「羊たちの沈黙」や「フィラデルフィア」で最後のクレジットにも使われていたという。そうだったのか!

2014/11/01

決定的な亀裂──「水牛のように 11月号」

 八巻美恵さんが編集しているウェブマガジン「水牛のように 11月号」に、短い
メモワールをひとつ書きました。

<決定的な亀裂>

 なんだか大仰なタイトルですが、案外、あたっているのかもしれません。笑って読んでいただけたら嬉しいナ。