2014/11/06

わたしの父 ── クッツェー『厄年日記』より


 クッツェー作品には、ほとんどいつもといっていいほど頻繁に、親子の関係が書き込まれる。母と息子/娘、父と息子/娘、これはなにを意味するのだろう? 三部作を訳了したいま、このことを考えてみるために、以前、試訳した「わたしの父」をアップすることにした。

わたしの父  ──『厄年日記』(第二の日記、03)より 

 ケープタウンの保管場所から最後の荷物が昨日とどいた。おもに引越荷物に入りきらなかった書籍と、破棄する気になれなかった書類だ。
 そのなかに、父が三十年前に死んだときにわたしの所有物となった、ちいさなダンボール箱があった。いまもラベルが貼られたままだ。父の遺品を詰めた隣人が書いたラベルには「ZC──抽き出しの中身」とある。そこには第二次世界大戦中の一時期、彼が南アフリカ軍に従軍してエジプトやイタリアに行ったときの思い出の品々も入っていた。戦友たちといっしょに撮った写真、記章、勲章、書きはじめてはみたが二、三週間後に中断されて再開されることのなかった日記、遺跡(大ピラミッド、コロッセウム)や風景(ポー谷)の鉛筆画、それにドイツ軍がプロパガンダ用にまいたビラのコレクション。箱の底には、晩年に書き散らした紙片があり、新聞の切れ端にことばを書きなぐったものが含まれていた ──「なすすべもなくおれは死ぬ」。

 人生にごくわずかなものを求め、ごくわずかなものしか受け取ることのなかった男が残した遺稿(ナーハラース)だ。根っから勤勉ではない者が ── 悠長なが最大級の優しいことばだろうか ── それでも中年からは諦観の境地で、代わりばえのしない単調な骨折り仕事をつぎからつぎへと渡り歩いた男。アパルトヘイト制度が保護し、恩恵をあたえるべく構想した一世代の人間でありながら、そこから彼が得たもののなんと僅かなこと! 最後の審判の日に、奴隷酷使者や利益搾取者を待ちうける地獄に彼を追いやるには、まことに心を鬼にしなければならないだろう。
 わたしのように彼もまた、軋轢、激発、怒りを顔に出すことを嫌い、だれとでもうまくやろうとした。彼がわたしのことをどう思っているか、話してくれることはついになかった。だが、高く評価してはいなかっただろう、わたしには密やかな確信がある。自分勝手な子どもだ、それが冷たい人間になった、そう思っていたにちがいない、それをわたしは否定できるだろうか?
 とにもかくにも、彼はこの形見の入った、あわれなほどちっぽけな箱へと縮んでしまい、そしてここにわたしが、歳をとるばかりの保管者がいる。わたしが死んだら、だれがこれを取っておくのだろう? この品々はどうなるのだろう? それを思うと胸が締めつけられる。☆

 第一作目の『ダスクランズ』の前半部には、ヴェトナム戦争の心理作戦計画の立案にたずさわる若いユージン・ドーンなる人物が出てくるが、彼には妻マリリンとのあいだに5歳の息子がいる。精神に異常をきたしはじめたドーンは、その息子を連れて逃亡する。物語は独房内のドーンのことばで終る。そこにはちらりと「ヴァンパイアの翼を広げる」母親のイメージが出てきて、これについてはまだ全然書いていない、なんていってるが、すでにここには母と息子の愛憎にみちた関係を暗示する不穏なことばがしっかり書き込まれていたのだ。

 二作目『その国の奥で』では、南アフリカの奥地の農場を舞台に娘マグダが父親を殺す場面が出てくる。これはつい最近、クッツェー自身の手になるシナリオが本になったばかり。
 三作目の『夷狄を待ちながら』には直接的な親子の場面はないけれど、その次の『マイケル・K』は、31歳のマイケルが病んだ老母アンナを古い農場へ連れて行く、という設定。さらに『フォー』は、気丈な女性、スーザン・バートンが消息不明になった娘を探す旅に出るというものだ。次の『鉄の時代』はガンの再発を宣告されたミセス・カレンが渡米した娘に書き残す手紙、という枠組みのなかで物語は展開される。『ペテルブルグの文豪』は紛れもない文豪ドストエフスキーが息子パーヴェル(妻の連れ子)の死をめぐって懊悩する物語だし、ヒット作『恥辱』は旧体制の価値観から抜け出せない大学教授の父デイヴィッド・ルーリーと、新体制のもとでなんとか細々と農場暮らしを切り開こうとする娘ルーシーの物語だ。

 もちろん『少年時代』『青年時代』『サマータイム』といった自伝的三部作には、作家自身のヒストリーとして、現実的なモデルとしての父と母がつねに顔を出す。
 オーストラリアへ移住してからの作品にもまた、なんとなく影は薄くなるけれど、親子のイメージはくり返される。『遅い男』には、独り身の主人公ポールが思いを寄せる家政婦マリアナにはドラゴという息子がいて、彼の教育費をポールが援助しようとする話が出てくるし、最新作『イエスの子供時代』にも、架空の土地に、記憶を消されて船で移民した男シモンと5歳の男の子ダビッドという疑似親子が登場する。
 
 ここにアップしたのは『厄年日記/Diary of a Bad Year』(2007)の後半に含まれている断章だ。『少年時代』や『サマータイム』に登場する父親ザカライアス・クッツェーの話と思われる。30年前に死んだとあるが、事実1988年没だから史実とほぼ一致する。書いているのは JC という80歳の作家で、『夷狄を待ちながら』という作品を書いた南アフリカから移住してきた人物だ。
「J」が「フアン」の頭文字であることは作中で明らかになるが、これはジョンのスペイン語読みだ。作家と書き手がまたまた微妙にダブる仕掛けになっているのだ。作家クッツェーはこの作品を書いているとき、すでにスペイン語世界の入口に立っていたことがあらためて分かる仕掛けだが、断章自体はもっと切実な何かを暗示してもいる。老父への追想が胸をしめつけられる思いとして書き留められているのだ。思えばこれは、クッツェーが二度目の来日をする直前に発表した作品だった。