さて、その引用箇所である。原文は:
──He [David] would not mind hearing Petrus's story one day. But preferably not reduced to English. More and more he is convinced that English is an unfit medium for the truth of South Africa. Stretches of English code whole sentences long have thickened, lost their articulations, their articulateness, their articulatedness. Like a dinosaur expiring and settling in the mud, the language has stiffened. Pressed into the mould of English, Petrus's story would come out arthritic, bygone.(Disgrace, p117)
「感情」を表現する語を焼き払うよう推敲しているというクッツェーの文体に即して、できるだけ淡々と訳してみる。
──彼[デイヴィッド]はペトルスの物語をいつか聞いてもいいと思う。だが、できれば無理に英語にせずに。英語は南アフリカの真実を伝える媒体として不適切との確信は強まる一方だ。文のすみずみまで英語文法を適応させようとするあまり、文全体が濁って粘つき、明晰さを失い、明確に述べることも、述べられることもない。絶滅寸前の恐竜が泥土に足をとられたように、この言語は身を強ばらせている。ペトルスの物語も英語という鋳型に押し込められるや、関節炎を患い、古色蒼然たるものとなってしまうだろう。
──彼[デイヴィッド]はペトルスの物語をいつか聞いてもいいと思う。だが、できれば無理に英語にせずに。英語は南アフリカの真実を伝える媒体として不適切との確信は強まる一方だ。文のすみずみまで英語文法を適応させようとするあまり、文全体が濁って粘つき、明晰さを失い、明確に述べることも、述べられることもない。絶滅寸前の恐竜が泥土に足をとられたように、この言語は身を強ばらせている。ペトルスの物語も英語という鋳型に押し込められるや、関節炎を患い、古色蒼然たるものとなってしまうだろう。
ここを初めて読んだときに思い出したのは、90年代初めに南アを訪れたある人のことばだった──タウンシップで黒人たちと話していて思ったの、英語で話をするんだけれど、そのときは真面目に、外向きの顔で、きちんと話そうとするのが分かる。でも内輪でズールーやコーサといった言語でくだけた会話をするとき、彼らの表情が変わるのよ。顔つきが、まるでNHK教育チャンネルから民放チャンネルに切り替わったみたいに、ぱっと変わるの。すごくリラックスした感じになる。
このTVチャンネルの比喩は面白い。公式の表向きの言語と、本音が語れる親密な言語の違いをあらわす絶妙の表現である。大きくなってから学習して獲得した言語は、その人の個人史や環境によって重さ、位置づけなどはさまざまだ。旧植民地の先住系、元奴隷などの系譜の人たちが、仕事を得るうえで学ばざるをえない言語が宗主国の言語である。非インテリの人間にとって、それはどういうことか? 読者は想像する必要がある。
南アフリカ、と一般化することの危険性をあえて承知で言うなら、ここでクッツェーが述べている「南アの英語」を媒介に、ルーリーのようなインテリ男が農民ペトルスとコミュニケーションしようとすると、英語(ペトルスにとっては仕事のための言語、解放前までは支配者から命令される言語)という分厚い皮膜を通した、歯がゆいものにならざるをえない。むしろ「ペトルスの物語」を聞くなら、その母語によって語られる、もっと本音が出た繊細なものとして聞きたい。細やかな感情を表現でき、本音の底まですくいとることが可能な言語で語られる物語を、と主人公は言っているのだ。たぶんコーサ語を母語とするペトルスの物語が「英語」に押し込められるなら、やりとりは細やかな感情の伝わりにくい、不完全なものにならざるをえない、と。
作品内で登場人物に語らせながらも、ここにはクッツェーという作家の「本音」に近いものがちらりと見えはしないか。うわべを取り繕うことを忌避し、本来の対話が成り立つ条件にこの作家はこだわる。インタビューではそれはありえない、と。そこには、ことばで構築した信念によって生きてきた人間の不器用さも露出している。沈黙を読み取ることで真実を伝えたい、心を通わせたい、とするこの作家の根源的な願望が書き込まれてもいる。(上の引用箇所直前にある、ペトルスといると at home だという表現は、この白人インテリ男の善意/勝手な思い込みを描いているとも取れなくもないが、それはまた別の機会に。)
上の引用は、したがって、南アという土地で歴史的条件を背負って個別の生を生きる人間たちを描きながら、クッツェー作品にとって普遍的な要素が深々と埋め込まれている、大いに注目すべき箇所なのだ。
南アフリカ、と一般化することの危険性をあえて承知で言うなら、ここでクッツェーが述べている「南アの英語」を媒介に、ルーリーのようなインテリ男が農民ペトルスとコミュニケーションしようとすると、英語(ペトルスにとっては仕事のための言語、解放前までは支配者から命令される言語)という分厚い皮膜を通した、歯がゆいものにならざるをえない。むしろ「ペトルスの物語」を聞くなら、その母語によって語られる、もっと本音が出た繊細なものとして聞きたい。細やかな感情を表現でき、本音の底まですくいとることが可能な言語で語られる物語を、と主人公は言っているのだ。たぶんコーサ語を母語とするペトルスの物語が「英語」に押し込められるなら、やりとりは細やかな感情の伝わりにくい、不完全なものにならざるをえない、と。
作品内で登場人物に語らせながらも、ここにはクッツェーという作家の「本音」に近いものがちらりと見えはしないか。うわべを取り繕うことを忌避し、本来の対話が成り立つ条件にこの作家はこだわる。インタビューではそれはありえない、と。そこには、ことばで構築した信念によって生きてきた人間の不器用さも露出している。沈黙を読み取ることで真実を伝えたい、心を通わせたい、とするこの作家の根源的な願望が書き込まれてもいる。(上の引用箇所直前にある、ペトルスといると at home だという表現は、この白人インテリ男の善意/勝手な思い込みを描いているとも取れなくもないが、それはまた別の機会に。)
上の引用は、したがって、南アという土地で歴史的条件を背負って個別の生を生きる人間たちを描きながら、クッツェー作品にとって普遍的な要素が深々と埋め込まれている、大いに注目すべき箇所なのだ。
「言語」と繊細な「表現」をめぐるクッツェーのこういった感覚、思想、立ち位置は近々刊行されるポール・オースターとの往復書簡集『ヒア・アンド・ナウ』(岩波書店)で詳しく語られることになる。現在74歳のクッツェーが、68歳から71歳までのあいだにポール・オースターに宛てて書いたこの書簡集では、手紙という形式によって、いよいよ本音に近い、率直な語りが展開される。自伝的三部作の『サマータイム』(インスクリプト)を書いていた時期とも重なり、まるでこの作品の種明かしのような話も出てくる。読者はこの作家の一皮も、二皮も向けた姿を垣間見る瞬間に立ち会うことになるはずだ。
映画「Disgrace」でルーリーを演じるマルコヴィッチは「きみが言っていたようにミスキャスト」とオースターが明言していることも付け加えておきたい。