Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2012/02/16

「クッツェーを読むことは」by Peter McDonald

面白い映像を見つけた。ピーター・マクドナルドが J.M.クッツェーとその作品について語るものだ。

「アパルトヘイト体制下の南アフリカで書くということは、監獄のなかから書いているようなもので」とクッツェーが述べたのは確か1987 年のイェルサレム賞受賞スピーチだった。当時の南アフリカで実施されていた厳しい検閲制度について詳細に論じたのが「文芸警察/The Literature Police」。(これについてはこちらこちらへ)その著者、ピーター・マクドナルド/Peter McDonald がオクスフォード大学で、「彼の作品を読むことは、英語が話されているもうひとつ別の国へ旅するようなものだ」とレクチャーしている。「偉大な作家シリーズ」のひとこまである。

 1964年にケープタウンで生まれたマクドナルドはクッツェーの次(の次?)世代にあたり、いってみればクッツェーとは親子、ほどの年齢差がある。そんなマクドナルドがクッツェーを論じる視点は、デイヴィッド・アトウェルなどクッツェーと同時代の研究者にくらべると、時間的にも空間的にもぐっとパンした視線からとなる。つまり、カメラ位置がぐんと後ろに下がっているのだ。だからスカッと見通しのいいランドスケープのなかにクッツェーを置いて論じてくれる。世界で使われる英語という言語、その英語を使った文学活動としてのクッツェー作品、という視点である。ふむふむ。

 マクドナルドはケープタウン出身だから、もちろん、クッツェー作品の英語がどんなコンテキストから生まれてきたか、手に取るように理解している。作品で使われる英語が、一見、端整な、オーソドックスな英語で書かれているように見えながら、じつはそこに含まれる固有の異質性をも的確に理解、読み取れる位置にあるのだ。
 マクドナルドは、そんなクッツェー作品を、作品内に埋め込まれた「名前」をキーにして読み解いていく。あるいは「Disgrace/恥辱」の冒頭に書かれた「五つの語」を手がかりに、この作品がどんな手法で、どのような戦略で書かれているかを分析する。

 ひとことに英語文学といっても、多種多様。作家と作品を生み出したコンテキストの奥の深さを理解しなければ、「世界文学」とよべる作品の翻訳は難しい時代にきているのだな。心しなければ。