ケープ植民地への奴隷の輸入は17、18世紀はアジアからが多かった。インド南部、スリランカ、インドネシア、マレーからが多く、タイ、フィリピン、日本から売られてくる者もいた。とくに技術をもった職人/クラフトマンが好まれた。スレイブ・ロッジに展示されていた地図は、西アフリカからも人が入っていたことを示していた。
さて、今回は言語の話をしよう。
輸入奴隷がふえた1770年ころには植民地内で生まれる奴隷も多くなった。奴隷男性と先住コイ人の女性、奴隷女性と植民者やオランダ東インド会社雇用者(これらの組み合わせに注目!)のあいだに生まれた者たちである。彼らはどんな言語を使っていたか。
第一言語/母語のちがう人たちが第二言語で意思疎通をする場合、それをリンガ・フランカという。1800年ころまで、インド洋のリンガ・フランカはポルトガル語だった。ケープ植民地で使われるリンガ・フランカも最初はポルトガル語。奴隷貿易をするポルトガル船に乗せられ、船上で、あるいは中継地マダガスカルで、奴隷はポルトガル語を仕込まれたのだろう。命令はポルトガル語が使われたということだ。
だが19世紀初めになると、これがケープ・ダッチと呼ばれるオランダ語になり、それがアフリカーンス語になっていく。(スレイブ・ロッジの掲示内容をメモしてきたのだけれど、これで間違いないかな?)
この過程を考えると、おぼろげながらアフリカーンス語の成り立ちがわかる。「キッチン・ランゲージ」、つまり読み書きできない人たちが台所や農場の労働現場で意思疎通のために使い、代々受け継がれていった言語、それがカラードが使うアフリカーンス語だ。だからこの言語は、最初はもっぱら話しことばとして簡素化された形で後世代へと伝わった。
一方、オランダ系入植者たちが使うアフリカーンス語はそれとはかなり異なることが指摘されている。でも当然、身近にいる人間どうしが使う、基本的に同一の言語は混じり合い、影響し合い、白人のアフリカーンス語も簡素化されていったのだろう。たとえば動詞の変化がなくなるとか。
ボーア戦争以後、イギリスに経済的にも政治的にも覇権を奪われてきたアフリカーナーたちが政権を獲得したのが1948年。この言語に権威をもたせたいと考えたこのアパルトヘイト政権が1974年に政令を出した。そしてバンツー教育(黒人の教育)はすべて、英語ではなく、アフリカーンス語で行うとした。その2年後に起きたのが、かの有名な「ソウェト蜂起」だ。
ソウェトの高校生たちが「自発的に蜂起した」と伝えられたが、『デイヴィッドの物語』の主人公は、それはナイーヴな受け取り方で、非合法で地下活動を行っていた解放組織による外部からの周到な指令によって起きた、と明言する。う〜ん、あるいは、そうなのかも・・・。
スレイブ・ロッジ内の展示では、もうひとつ、おもしろい発見があった。南アフリカには、セッテンバー、ジャヌアリー、など月を示す語を姓とする人が大勢いるが、これはもともと奴隷の買い手が、奴隷を買いつけた日付をそのまま名前としてつけたことからくる、と説明されていたのだ。それで思い出すのはトニ・モリスンの『ソロモンの歌』。(そうそう、『デイヴィッドの物語』にもモリスンの『ビラブド』からの引用があったっけ。)植民者は、モーゼ、シーザーといった、自分の子どもには絶対につけない名前をペットや奴隷につけた、とも書かれていた。ふ〜ん。そういうものか。そういうものだろな。名づけの暴力。
『デイヴィドの物語』に出てくるグリクワ民族の祖、アダム・コック一世は、18世紀に一族をひきつれてナマクワランドへトレックした人だが、もとは奴隷だった。自由をみずから買い取り、東インド会社からなんと「バスタード(私生児)」という「称号」をあたえられた。この経歴を見ると、複雑な思いになる。コックはグリクワとしての「カピタン/首長」の称号も植民地政府からもらっている。
キリスト教、約束の地、トレック、など彼らにはオランダ系白人の宗教、思想、文化との共通項が多い。グリクワを率いて何度もトレックした大首長、アンドリュー・ルフレー(1867〜1941)は、金とダイヤモンドの利権を強奪して勢力をのばしていくイギリス植民地政府と対等の関係を築こうと奮闘しながら、裏切られ、投獄され、アパルトヘイトを打ち立てた国民党からもさんざんなあつかいを受ける。だが、最後は「分離発展」をみずからのぞみ、アフリカーナーの思想を支持するようになっていった。先住民、カラード、といっても、この辺がなかなか複雑である。
1948年生まれのゾーイ・ウィカムが書いた『デイヴィッドの物語』は、このグリクワの歴史に、解放組織ANCに個人としてリクルートされた「カラードの男女」が絡む、まことにスリリングな、ポストモダン的小説仕立ての、壮大な歴史物語である。
こうして見ると「カラード」とひとくくりにされてきた人たちは、じつに多様な文化的、言語的背景をもっていることがわかる。クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルも、『マイケル・K』の主人公も、きっとこの「カラード」なんですね。『恥辱』に出てくる女学生メラニーとかパートで娼婦をやる主婦のソラヤもそう。ソラヤはマレー系とわかる名前だし、映画もそれらしき女優が演じていた。
ケープタウンって土地は、とっても複雑で、とっても面白い!
(付記:そうそう、ジョン・クッツェーがなぜ、クツィアやクツィエではなく、クッツェーなのかということも、今回の旅でよくわかった。)
さて、今回は言語の話をしよう。
輸入奴隷がふえた1770年ころには植民地内で生まれる奴隷も多くなった。奴隷男性と先住コイ人の女性、奴隷女性と植民者やオランダ東インド会社雇用者(これらの組み合わせに注目!)のあいだに生まれた者たちである。彼らはどんな言語を使っていたか。
第一言語/母語のちがう人たちが第二言語で意思疎通をする場合、それをリンガ・フランカという。1800年ころまで、インド洋のリンガ・フランカはポルトガル語だった。ケープ植民地で使われるリンガ・フランカも最初はポルトガル語。奴隷貿易をするポルトガル船に乗せられ、船上で、あるいは中継地マダガスカルで、奴隷はポルトガル語を仕込まれたのだろう。命令はポルトガル語が使われたということだ。
だが19世紀初めになると、これがケープ・ダッチと呼ばれるオランダ語になり、それがアフリカーンス語になっていく。(スレイブ・ロッジの掲示内容をメモしてきたのだけれど、これで間違いないかな?)
この過程を考えると、おぼろげながらアフリカーンス語の成り立ちがわかる。「キッチン・ランゲージ」、つまり読み書きできない人たちが台所や農場の労働現場で意思疎通のために使い、代々受け継がれていった言語、それがカラードが使うアフリカーンス語だ。だからこの言語は、最初はもっぱら話しことばとして簡素化された形で後世代へと伝わった。
一方、オランダ系入植者たちが使うアフリカーンス語はそれとはかなり異なることが指摘されている。でも当然、身近にいる人間どうしが使う、基本的に同一の言語は混じり合い、影響し合い、白人のアフリカーンス語も簡素化されていったのだろう。たとえば動詞の変化がなくなるとか。
ボーア戦争以後、イギリスに経済的にも政治的にも覇権を奪われてきたアフリカーナーたちが政権を獲得したのが1948年。この言語に権威をもたせたいと考えたこのアパルトヘイト政権が1974年に政令を出した。そしてバンツー教育(黒人の教育)はすべて、英語ではなく、アフリカーンス語で行うとした。その2年後に起きたのが、かの有名な「ソウェト蜂起」だ。
ソウェトの高校生たちが「自発的に蜂起した」と伝えられたが、『デイヴィッドの物語』の主人公は、それはナイーヴな受け取り方で、非合法で地下活動を行っていた解放組織による外部からの周到な指令によって起きた、と明言する。う〜ん、あるいは、そうなのかも・・・。
スレイブ・ロッジ内の展示では、もうひとつ、おもしろい発見があった。南アフリカには、セッテンバー、ジャヌアリー、など月を示す語を姓とする人が大勢いるが、これはもともと奴隷の買い手が、奴隷を買いつけた日付をそのまま名前としてつけたことからくる、と説明されていたのだ。それで思い出すのはトニ・モリスンの『ソロモンの歌』。(そうそう、『デイヴィッドの物語』にもモリスンの『ビラブド』からの引用があったっけ。)植民者は、モーゼ、シーザーといった、自分の子どもには絶対につけない名前をペットや奴隷につけた、とも書かれていた。ふ〜ん。そういうものか。そういうものだろな。名づけの暴力。
『デイヴィドの物語』に出てくるグリクワ民族の祖、アダム・コック一世は、18世紀に一族をひきつれてナマクワランドへトレックした人だが、もとは奴隷だった。自由をみずから買い取り、東インド会社からなんと「バスタード(私生児)」という「称号」をあたえられた。この経歴を見ると、複雑な思いになる。コックはグリクワとしての「カピタン/首長」の称号も植民地政府からもらっている。
キリスト教、約束の地、トレック、など彼らにはオランダ系白人の宗教、思想、文化との共通項が多い。グリクワを率いて何度もトレックした大首長、アンドリュー・ルフレー(1867〜1941)は、金とダイヤモンドの利権を強奪して勢力をのばしていくイギリス植民地政府と対等の関係を築こうと奮闘しながら、裏切られ、投獄され、アパルトヘイトを打ち立てた国民党からもさんざんなあつかいを受ける。だが、最後は「分離発展」をみずからのぞみ、アフリカーナーの思想を支持するようになっていった。先住民、カラード、といっても、この辺がなかなか複雑である。
1948年生まれのゾーイ・ウィカムが書いた『デイヴィッドの物語』は、このグリクワの歴史に、解放組織ANCに個人としてリクルートされた「カラードの男女」が絡む、まことにスリリングな、ポストモダン的小説仕立ての、壮大な歴史物語である。
こうして見ると「カラード」とひとくくりにされてきた人たちは、じつに多様な文化的、言語的背景をもっていることがわかる。クッツェーの『鉄の時代』に出てくる浮浪者ファーカイルも、『マイケル・K』の主人公も、きっとこの「カラード」なんですね。『恥辱』に出てくる女学生メラニーとかパートで娼婦をやる主婦のソラヤもそう。ソラヤはマレー系とわかる名前だし、映画もそれらしき女優が演じていた。
ケープタウンって土地は、とっても複雑で、とっても面白い!
(付記:そうそう、ジョン・クッツェーがなぜ、クツィアやクツィエではなく、クッツェーなのかということも、今回の旅でよくわかった。)