E. Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2011/12/13

スレイヴ・ロッジ──ケープタウン日記、番外編(3)

年の瀬に、奴隷制の話かよ〜、と思われる方は、もっと「楽しい」ところへいらしてください。今日の話題は、でも、日本人も奴隷だった、ということなんだけどね。

 さて、ケープタウン滞在中に、ひとりで街歩きしたとき行ったのが、宿から歩いて三分ほどのところにあった「スレイブ・ロッジ」。ここは必ず行こう、と出発前から決めていた。なぜならいま訳しているウィカムの『デイヴィッドの物語』の内容と切り離せない場所だからだ。
 この建物はかつて船で連れられてきた奴隷を入れておいた場所。売ったり買ったりした場所はもっと海沿いの、ケープタウン港の埠頭のそばにある広場だった。建物自体の歴史はこちらへ。

 さて、南アフリカの奴隷制については、あまり伝わってこない。なぜか。複雑なのだ、これが。あまり触れたくないと思っている人たちも多かったし、いまも多いのかもしれない。アパルトヘイト時代「カラード」という範疇に分類されていたのは、大ざっぱにいうと、白人、バンツー系黒人(ネイティヴ)以外の、じつにさまざまな人たちだった。
 まず先住民コイサン女性とヨーロッパ入植者男性の子どもたちの、そのまた子どもたち。ここにさらに加わるのが、当時のオランダが植民地としていたインドネシアやマレー半島、さらには南インドやスリランカから買いあげられ、連れられてきた人たちだ。彼らはマダガスカル経由で農園の労働力としてケープ植民地に大量に移入され、混血が進む(詳細は次回に)。

 ケープタウンの観光局が誇る地元料理、ボボティやフリカデルといったケープマレー料理は彼らが持ち込み、発達させた料理だ。内陸部とちがって牛肉料理やバーベキューばかりではない。ムスリムも多い。地区によっては毎朝、モスクから鐘の音が聞こえるという。ちなみにケープタウンの人口はこの元「カラード」が圧倒的に多い。彼らの第一言語はアフリカーンス語。(写真は、滞在中に美味しいボボティ/bobotie──カレー風味の挽肉等に卵をトッピングしライスを添えた料理──を食べた「カッスル」内のレストラン。)

 日本からもポルトガル人によって連れられてきた奴隷がいた。名前が明らかに日本人、という記録があるという。ポルトガルが海を制覇していた時代、つまり日本に「鉄砲」など持ってやってきたころのことだが、日本からも奴隷として人が売られていたということだ。「カラード」というカテゴリーにはインド人も最初ふくまれていたが、ガンジーなどの地位向上運動で特別に分離した。つまり、日本人は過去の南ア的分類からすればカラードなのだ、どう考えても。

 次に勢力をのばしたオランダが17世紀半ばにこの地に植民地としての足場を築き、五角形の砦、カッスル・オブ・グッド・ホープを建設した。ここの展示には、オランダ東インド会社の頭文字「VOC」が焼き付けられた、特注の伊万里焼きの青い大皿が何枚も飾ってあった。景徳鎮の焼き物もガラスケースにいれられていた。いま読んでいるタイモン・スクリーチの『阿蘭陀が通る』時代(この本がまためっちゃ面白い!)、船はケープタウン経由で長崎の出島にやってきていたのだ。

 商売をする相手として長いつきあいがあるから、アパルトヘイト時代、本当は「カラード」なんだが、商談するときにいちいち別扱いは面倒だから、特別待遇として「名誉白人」にしてやる、といわれたのが日本人=名誉白人のことの起こり。それに尻尾を振って飛びついた日本経済界の御仁たちは、なんという恥辱! 記憶に新しい、つい1994年まで続いた話である。