翻訳中の『デイヴィッドの物語』の著者、ゾーイ・ウィカム Zoë Wicomb が今日から3日間にわたってヴィッツヴァーテルスラント大学で開催されるシンポジウム「記憶と創造性について」に参加するらしい。おっ! グラスゴーから南アフリカへちょっと里帰りですね!
「記憶と創造性」というタイトルもなんだか気になる。「第3回アパルトヘイト・アーカイヴ会議」の一環として開催されるというのも興味深い。
というのは、結局、作品というのはそれを作る人の記憶や歴史観と、意識的に向き合う程度はさまざまだとしても、不可分につながっているのは紛れもない事実だから。そこから切れてしまうと、自分が何者であるのかわからないまま荒唐無稽なダンス・マカーブルを余儀なくされる。
だから、作者の意識に眠る、いや、意識内で覚醒している、そのつながりを可視化しようとする作品がおもしろい。
前面に出る必要はない。しかし深いところで歴史認識を欠いた作品は、どれほど意匠が凝らされていようと、どれほど練りあげられた作品構造をもっていようと、時間の強い光で色褪せていかざるをえないだろう。「ことばは文脈がすべて」とは先日、訳していたところに出てきたウィカムの文章だけれど、一冊の書籍を翻訳して紹介するときも、それとほぼおなじことがいえるかもしれない。
思い出すのは「翻訳紹介するときの文脈がすべて」ということば。これは翻訳を志した遠いむかし、尊敬する大先輩、藤本和子氏にいわれたことばでもあった。日本語に移し変える側の歴史を照射する視点のことではないか、といまは理解できる。
写真はナマクワランド出身の作家、ゾーイ・ウィカム。ズールー、コーサといったブラック(バンツー系)の人たちとはちょっと異なる褐色の肌の、東洋人を思わせる切れ長な目元。南アフリカにもっとも早くから住んでいた先住民系の人といっていいだろう。
1948年生まれの彼女が生きてきた世界は、アパルトヘイトの歴史、さらに植民者としてやってきたヨーロッパ人と先住民との混交の歴史ぬきにしては語れない。その歴史に鋭く、深い光をあて、現在と切り結ぶ作品を読んでいると、見えない存在として裏舞台に押し込められてきた人たちを、ほとんど自分の分身として生み出し、言語化していくプロセスに出会っているように思えてくる。
作品の背景遠くヴァニシングポイントに感知されるのは、サヴァルタンと呼ばれる人たちのおぼろげな像で、ウィカムにとって「書くこと」はその存在をあたうるかぎり可視化しようとする作業なのだと得心する。
この作業がめざす地点は、ある意味、クッツェーとその作品群が呼び求めるカウンターヴォイスが響きはじめる地点ともいえそうだ。まさに究極の「ポストコロニアル文学」であり、そう呼びたければ「フェミニズム文学」といったっていい。女が書いているからフェミニズム文学、旧植民地出身の作家が書いていたり旧植民地が舞台だからポスコロ文学、という大雑把すぎてぼやけたくくりとは決定的に異なる視点が、きっちり見えてくる。
ま、彼女自身はそんなこと知っちゃない、かもしれないけれど、ね。
「記憶と創造性」というタイトルもなんだか気になる。「第3回アパルトヘイト・アーカイヴ会議」の一環として開催されるというのも興味深い。
というのは、結局、作品というのはそれを作る人の記憶や歴史観と、意識的に向き合う程度はさまざまだとしても、不可分につながっているのは紛れもない事実だから。そこから切れてしまうと、自分が何者であるのかわからないまま荒唐無稽なダンス・マカーブルを余儀なくされる。
だから、作者の意識に眠る、いや、意識内で覚醒している、そのつながりを可視化しようとする作品がおもしろい。
前面に出る必要はない。しかし深いところで歴史認識を欠いた作品は、どれほど意匠が凝らされていようと、どれほど練りあげられた作品構造をもっていようと、時間の強い光で色褪せていかざるをえないだろう。「ことばは文脈がすべて」とは先日、訳していたところに出てきたウィカムの文章だけれど、一冊の書籍を翻訳して紹介するときも、それとほぼおなじことがいえるかもしれない。
思い出すのは「翻訳紹介するときの文脈がすべて」ということば。これは翻訳を志した遠いむかし、尊敬する大先輩、藤本和子氏にいわれたことばでもあった。日本語に移し変える側の歴史を照射する視点のことではないか、といまは理解できる。
写真はナマクワランド出身の作家、ゾーイ・ウィカム。ズールー、コーサといったブラック(バンツー系)の人たちとはちょっと異なる褐色の肌の、東洋人を思わせる切れ長な目元。南アフリカにもっとも早くから住んでいた先住民系の人といっていいだろう。
1948年生まれの彼女が生きてきた世界は、アパルトヘイトの歴史、さらに植民者としてやってきたヨーロッパ人と先住民との混交の歴史ぬきにしては語れない。その歴史に鋭く、深い光をあて、現在と切り結ぶ作品を読んでいると、見えない存在として裏舞台に押し込められてきた人たちを、ほとんど自分の分身として生み出し、言語化していくプロセスに出会っているように思えてくる。
作品の背景遠くヴァニシングポイントに感知されるのは、サヴァルタンと呼ばれる人たちのおぼろげな像で、ウィカムにとって「書くこと」はその存在をあたうるかぎり可視化しようとする作業なのだと得心する。
この作業がめざす地点は、ある意味、クッツェーとその作品群が呼び求めるカウンターヴォイスが響きはじめる地点ともいえそうだ。まさに究極の「ポストコロニアル文学」であり、そう呼びたければ「フェミニズム文学」といったっていい。女が書いているからフェミニズム文学、旧植民地出身の作家が書いていたり旧植民地が舞台だからポスコロ文学、という大雑把すぎてぼやけたくくりとは決定的に異なる視点が、きっちり見えてくる。
ま、彼女自身はそんなこと知っちゃない、かもしれないけれど、ね。