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花蘇芳(はなずおう)も、流火先生が教えてくれた花の名、花の色でした。
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草刈りという夏の季語がある。句にも元禄ごろから詠まれているが、麻刈、藻刈、真菰刈などと個別に詠まれはじめるのは、概、蕪村の時代からである。これは題詠によって季語が拡げられたということもあろうが、一つには農事としての重要さが認識されだしたからだろうと思う。
菜種刈などは明治の終ごろからで、菜殻火(ながらび)に至ってはそれよりもあとらしい。いま手許に資料がないのではっきりとしたことは言えないが、福岡の人吉岡禅寺洞あたりがこれを最初に詠んだのではなかろうか。「菜殻焼農人古きを守り」という句が「禅寺洞句集」に見える。実を採ったあとの菜殻は、畑に積上げ焼いて肥料にするが、菜殻火は菜種の栽培のとりわけ盛んな北九州の名物である。菜の花は宗因の昔から句に詠まれているのに、菜種刈も菜殻火もごく近い時代にまで詠まれなかったということは、不思議な気もするが、そこにも自然の受取りようの変化のあとがうかがわれて面白い。
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菜殻火の襲へる観世音寺かな
という一句がある。句姿雄勁、攻める動の側に秘策あれば守る静の側にも秘策ありと詠ませるような「襲へる」と「かな」との遣方である。そこに生死についての余裕も覗いていて、明るい哄笑もきこえてくるような気がする。さしづめこれは合戦絵巻の一こまになる。こういう句を作らせると茅舎という俳人はじつにうまい。観世音寺は福岡の太宰府址近くにある寺、天智天皇の創建にかかると伝えられ、奈良東大寺、下野国薬師寺と共に三戒壇の一つだが、十一世紀半ばに炎上して諸堂は灰燼に帰した。むろん茅舎の句は、それを知ったうえで作られているだろう。「菜殻火は筑後川を隔てて見渡す限りの平野に燃え上がってゐた。此処にも彼処にも燃え上る炎が或は強く或は弱く様々な為に一度にどつと大きく燃えるよりも却って烈しい印象を与えてゐた」と茅舎は書いている。目のあたりに拡るその菜殻の炎に重ねて、堂宇は、その中に亡んだと想像している。そこに自らを焼く茅舎菩薩の姿ものぞく。この無常の責め方もうまい。
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註)上の桜の写真は、流火先生ねむる深大寺界隈の桜です。