『花づとめ 』から川端茅舎の句にまつわる文章を、もうひとつ紹介します。菜の花は大好きな花ですが、実を採ったあとの殻を焼く農事については、田舎の出身ですが、あまり知りませんでした。籾殻を田んぼで焼くのはよく目にしましたが・・・。
花蘇芳(はなずおう)も、流火先生が教えてくれた花の名、花の色でした。
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草刈りという夏の季語がある。句にも元禄ごろから詠まれているが、麻刈、藻刈、真菰刈などと個別に詠まれはじめるのは、概、蕪村の時代からである。これは題詠によって季語が拡げられたということもあろうが、一つには農事としての重要さが認識されだしたからだろうと思う。
菜種刈などは明治の終ごろからで、菜殻火(ながらび)に至ってはそれよりもあとらしい。いま手許に資料がないのではっきりとしたことは言えないが、福岡の人吉岡禅寺洞あたりがこれを最初に詠んだのではなかろうか。「菜殻焼農人古きを守り」という句が「禅寺洞句集」に見える。実を採ったあとの菜殻は、畑に積上げ焼いて肥料にするが、菜殻火は菜種の栽培のとりわけ盛んな北九州の名物である。菜の花は宗因の昔から句に詠まれているのに、菜種刈も菜殻火もごく近い時代にまで詠まれなかったということは、不思議な気もするが、そこにも自然の受取りようの変化のあとがうかがわれて面白い。
川端茅舎に、その菜殻火の連作がある。昭和十四年六月、病の小康を得て茅舎は九州に遊んだ。生涯で最も遠くまで脚を伸ばした旅行で、それだけで心弾むさまがそのときの句文からもよく読取れる。「燎原の火か筑紫野の菜殻火か」「筑紫野の菜殻の聖火見に来たり」「菜殻火は観世音寺を焼かざるや」「都府楼趾菜殻焼く灰降ることよ」などの句にまじって、
菜殻火の襲へる観世音寺かな
という一句がある。句姿雄勁、攻める動の側に秘策あれば守る静の側にも秘策ありと詠ませるような「襲へる」と「かな」との遣方である。そこに生死についての余裕も覗いていて、明るい哄笑もきこえてくるような気がする。さしづめこれは合戦絵巻の一こまになる。こういう句を作らせると茅舎という俳人はじつにうまい。観世音寺は福岡の太宰府址近くにある寺、天智天皇の創建にかかると伝えられ、奈良東大寺、下野国薬師寺と共に三戒壇の一つだが、十一世紀半ばに炎上して諸堂は灰燼に帰した。むろん茅舎の句は、それを知ったうえで作られているだろう。「菜殻火は筑後川を隔てて見渡す限りの平野に燃え上がってゐた。此処にも彼処にも燃え上る炎が或は強く或は弱く様々な為に一度にどつと大きく燃えるよりも却って烈しい印象を与えてゐた」と茅舎は書いている。目のあたりに拡るその菜殻の炎に重ねて、堂宇は、その中に亡んだと想像している。そこに自らを焼く茅舎菩薩の姿ものぞく。この無常の責め方もうまい。
それにしても、十七音の中でナガラビとカンゼオンジを取られれば、あとは殆ど何も言えない。それを思えば「襲える」と「かな」にこめられた並々ならぬ気魄に、改めて驚かされる。処女句集にもすでに、「夜店はや露の西国立志編」「蚯蚓(みみず)鳴く六波羅蜜寺しんのやみ」のような句があり、こういう手法は、師の虚子に学んで、茅舎が若くから好んだ句法の一つだが、普通の俳人には「西国立志編」「六波羅蜜寺」などという長たらしい固有名詞を、とうてい生かしきれまい。「はや露の」「しんのやみ」、いずれもたった五文字であるがそら怖ろしいほどの活眼である。話せば長い物語の来歴が幾重にもかさなってそこから浮かんできそうで、こういう茅舎の句が最近ますます好になった。
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註)上の桜の写真は、流火先生ねむる深大寺界隈の桜です。