2008/03/23

「朴散華」──読書、切り抜き帳(6)

 故安東次男の『花づとめ 』(講談社文芸文庫、2003)からもうひとつ、川端茅舎の句について書いた文章の一部を紹介します。
 川端茅舎は、16歳のとき読んだ次の句で、わたしの記憶のなかに強烈な印象を残している俳人です。

  ひらひらと月光降りぬ貝割菜

 高校の現代国語の教科書に載っていたのです。この句に、課題としてエンピツ画をつけたこともあって、とりわけあるイメージといっしょに脳裏に焼きついてしまった句。そのときは、月の光に照らされた生まれたばかりの生命に、容赦なく不穏で、邪悪なかげが襲いかかる、そんなイメージを思い浮かべた記憶があります。生々しいまでの感覚を惹起する句だと思いました。
 世界一短い詩型のなかに、圧縮した、重層的なイメージを籠めることのできる希有な詩人、それが茅舎だと思ったのは、20代になって茅舎の句を再読し、流火先生の茅舎好きを知ったときでした。
 では「花づとめ」から、流火先生の書いた「朴散華(ほおさんげ)」の一部を。
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 泰山木の花が咲く頃になると、いつも川端茅舎のことを思出す。茅舎は居室の窓前に植えた朴の木を、病床の慰めとしていた。句にも詠んでいる。泰山木と朴はどちらもモクレン科で、木の大きさ花の大きさ、それに花の印象もよく似ている。ただ、葉の形状がいちじるしくちがっている。それに朴は、泰山木のように常緑樹ではなく落葉樹である。花と葉との取合せの印象は妙なもので、朴の花は盛のときの方が美しい。(中略)

  朴散華即ちしれぬ行方かな   茅舎

 こういう印象も泰山木の花にはない。花びらが散りこぼれたさまがどことなくきたならしいのは、葉に朴のようなやわらかさがないからだろうか。朴散華ということばは、現代の歳時記では季語として採っていて、中には「散るもみごとであり、蓮の花と同じに、特に朴散華とも詠まれる」と解説しているものもある。しかし、こういう遣方がもともとあったわけではなく、右の茅舎の一句によって季語となったのである。歳時記の多くは句例として「示寂すというふ言葉あり朴散華 虚子」をまず挙げているが、虚子の句は右の茅舎の句を踏えた、茅舎追悼の吟である。詳しくいえば、茅舎の句は昭和十六年八月号の「ホトトギス」巻頭に虚子が採った句の一つであり、虚子の句は同誌の翌九月茅舎追悼号に発表されている。歳時記の句例というものは、その辺の順序をちゃんとしてくれないとこまる。

 川端茅舎が死んだのは十六年七月十七日、四十四歳であった。その死の二日ほどまえに、八月号の巻頭に採られたことを病床で知らされ、たいへん喜んだ。じつは、茅舎の句に詳しい石原八束君がそれを私に教えてくれた。とするとこの句は、作られたのは六月であろう。朴の花期はほぼ五、六月、泰山木の花期よりやや短いから、かねがね私は、七月半ばごろまだ茅舎庵の朴は咲いていたのだろうか、それともこれは茅舎の最後の句の一つとして甚だ有名であるけれど、作者の追憶中のものであろうかと気にかけていたから、石原君にきいて疑問が氷解した。

「即ちしれぬ行方かな」とは、朴の花と一体になった作者の魂の行方がしれぬのである。因に茅舎には、おなじとき「我が魂のごとく朴咲く病よし」という句もある。この句と併て読めばよくわかる。臨終吟にふさわしいようだが、「朴散華」の句は、死を明るく眺めている上機嫌な句である。

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(写真は、左が朴、右が泰山木。葉のようすが、まるでちがいます。)

 上の文章が初出の「季節のうた」として書かれたのは、おそらく1973年の夏ごろでしょう。七夕が誕生日の流火先生が、54歳になるかならないか、そんな時期だったように思います。
「死を明るく眺めている上機嫌な句」と読む詩人の文章にも、どこか「上機嫌」なものが感じられます。
 昨夜は夕暮れに、もくれんの大きな花を一輪、持ち帰りました。