Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2019/03/21

アディーチェのライティング・バック

チヌア・アチェベの『崩れゆく絆』(粟飯原文子訳 光文社刊 2013)を再読した。アチェベはチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが最大の敬意を表するイボ人の作家だ。(「アフリカ文学の父」といわれることには異を唱えながら──だってそれまでアフリカには文学がなかったみたいじゃないかと。)代表作であるこの『崩れゆく絆』は世界中の高校や大学の課題図書となっている。原タイトル: Things Fall Apart はアディーチェのデビュー作『パープル・ハイビスカス』の書き出しでもあり、これは作家アディーチェがその出発点で、アチェベに示した最大の敬意と考えていいだろう。

 なぜいまごろ再読かというと、アディーチェが二つ目のO・ヘンリー賞を受賞した「The Headstrong Historian がんこな歴史家」という短篇の訳を見なおしているからだ。そしてあらためて、この短篇はアチェベの『崩れゆく絆』へのオマージュであり、ライティングバックになっていると確認した。日本で出た第二短編集『明日は遠すぎて』(2012)の最後に入れたときは、まだ光文社版の『崩れゆく絆』は出ていなかったが、この改訳版はイボ民族の伝統や文化について水も漏らさぬ詳細な訳注がつけられている。さすが専門の研究者!と膝を打ちたくなるすばらしい仕事だ。

『崩れゆく絆』はわたしにとって、かつて必要に迫られて読みはしたけれど、何度も英語で読みかけては途中で挫折した作品だった。主人公オコンクウォのあまりにも暴力的な性格に目をそむけたくなってしまうのだ。父親は笛吹きで、畑を耕して収穫をあげることをなおざりにして借金にまみれて死んだ男。「男としての甲斐性」がまるでなく、共同体のなかでも敬意を受けない存在として描かれている。

 その反動として息子オコンクウォは、体を鍛え、レスリングも強く、人一倍の働き者で人望を集める。実際、余計なことを考えずに働きに働いて家の納屋にはヤム芋もたくさん蓄え、妻を何人ももつ男になるのだけれど、、、。しかし、ふがいない父親への憤懣がほとんどトラウマのようになっていて、人びとに自分が勇猛果敢であることを認められたくて、戦いではすすんで人の首を切り、家庭内では自分に口答えをする妻や子供を徹底的に殴りたおす、という人物になった。あずかって息子のように育てていた男の子を殺さねばならないとされたときも、その集団にみずから加わる。非常に短気で、内面に極端にもろい「不安」をかかえ、それに目を向けて抑制する力をもたずに、かっとなるや暴力的手段に訴える。オコンクウォは幼いころに母親を亡くしていたという設定だ。
 
NewYorkerのイラスト
このマスキュリニティが、読んでいてなんとも苦しかったのだけれど、アディーチェの「がんこな歴史家」の反転させたもの(時代的にはその逆だけれど)として読むと、とてもよく理解できるし、じつによく書けているのだ。つまりこの物語は「これこそ男」とされてきた男性性の崩壊の物語でもあったと考えることができるのだ。檻に入った脆いエゴ。
 ヨーロッパから押し寄せてきたキリスト教的思想と武力による制圧が民族の伝統を打ち砕いた物語として、これまでは植民地主義的暴力への批判として読まれてきたが、アディーチェという若い作家がそのイボの伝統、カトリック、そして英語という混交文化から生まれて、アチェベの代表作をしのぐ作品をつぎつぎと発表していく様子を目の当たりにしている2019年の現在、アディーチェの作品には自文化、自民族の伝統といったものに対する非常に前向きの、それでいて痛烈な「批評精神」が息づいているのを感じる。

 そこには、女であるゆえに、あきらめなければならなかった過去の女たちの歴史を掘り起こして、それに敬意を表しながら、ヨーロッパから見たステレオタイプの負のイメージを払拭して、あらたなアフリカ人の物語を紡いでいくアディーチェの姿がある。

 たとえば『崩れゆく絆』のオコンクウォの友人であり、オコンクウォとは性格が逆の「じっくりものを考える」オビエリカを、「がんこな歴史家」の主人公ムワンバの、毒殺されたパートナーとして設定し、複数の妻をもとうとしたなかった、当時としては稀有な存在として描くのだ。これはアディーチェが考える、男性の理想像だろうか。『アメリカーナ』のオビンゼがその発展形といえなくもない。

この「がんこな歴史家」を含むアディーチェの短篇集が河出文庫に入ることになった。今回の文庫化はいってみればベスト・セレクションといいたいところだが、2009年に出た英語版のThe Thing Around Your Neck をそのまま踏襲したバージョンとなった。日本語への翻訳紹介ではちょっと複雑な歴史を負う「なにかが首のまわりに」(最初は「アメリカにいる、きみ」として発表された)については、すでに詳しく書いた。2009年をはさんでアディーチェの短篇を『アメリカにいる、きみ』(2007)と『明日は遠すぎて』(2012)という2冊の日本語独自のバージョンとして読者にとどけることができたのはラッキーだった。オリジナルより多くの短篇を含んでいるのだから。これはもう編集者Kさんの尽力のたまものだ。Merci!

 2004年8月にチママンダ・ンゴズィ・アディーチェの名前を初めて北海道新聞のコラムに書いてからすでに15年。アディーチェをめぐる状況はめまぐるしい発展をみせて、いまや彼女は世界のオピニオン・リーダーとなって、オフィシャルな外交絡みの文化イベントなどの場にも姿をあらわし、もちろん、大学や文化団体、メディアなどから引っ張りだこである。
 そんなアディーチェも、最初は短篇から出発したのだった。その原点がよく理解できる作品群をあらためて文庫として世に送り出せるのは、とても嬉しい。まだアディーチェを読んだことのない人は、ここから読むことをお薦めしたい。

 7月4日に、河出文庫から刊行予定です!

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追記:アディーチェのことを日本語で初めて書いたのは、2005年ではなくその前年の2004年8月のことでした。媒体は北海道新聞、「世界文学・文化アラカルト」というコラムでした。訂正します。