Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2019/03/25

『イエスの死・The Death of Jesus』 から読むクッツェー

オーストリアのハイデンライヒシュテインで22-23日の2日にわたって開かれた「霧のなかの文学」で、クッツェーは『イエスの幼子時代』『イエスの学校の日々The Schooldays of Jesus』と続いたイエスの三部作の最後『イエスの死 The Death of Jesus』から女優のコリンナ・キルヒホフといっしょに朗読したと伝えられる。

編集者ハンス・ユルゲン・バルメスと語るJ.M.クッツェー
この文学祭、今年は全面的にクッツェー祭りになったようで、初日はクッツェーの朗読のほかに、1990年代からクッツェー作品や南アフリカの作家をドイツ語に翻訳してきたラインヒルト・ベーンケReinhild Böhnkeが翻訳について語り、2日目は名だたる作家が『サマータイム』『マイケル・K』『その国の奥で』『恥辱』『鉄の時代』といった作品から朗読した。そして最後にドイツ語版の出版社フィッシャーの編集者であるハンス・バルメスHans Balmes とクッツェーが会話をするという流れだったようだ。元記事はこちら

北を介さずに3地域を結ぶ文学構想
バルメスとの会話では、最新作『モラルの話』がなぜ英語ではなくスペイン語で最初に出版されたかと問われて、「自分の本は、どれも英語という言語に根ざしてはいない。自分は特定の言語を志向してはいない。世界の主要言語という位置付けで覇権を握る英語によって、その他の言語が追いやられている現状には、うんざりしている」と答えたという。
 この辺まではすでに拙訳『モラルの話』のあとがきや、昨年のスペインでのイベントでブエノスアイレスの編集者コスタンティーニと交わされた会話の内容とも重なるが、クッツェーは、ふたたび「南の文学」を、ニューヨークやロンドンを経由せずに直接交流することで、それぞれ独自の複雑な歴史や文化背景を有する南の世界が発信する文学として発展させたいと述べたという。この主張については昨年4月末の南の文学ラウンドテーブルの内容を、ある雑誌にまとめたので近いうちに読者に読んでもらえるはずだ。

 会話では、クッツェーはまたグローバリゼーションを激しく非難。人はその消費行動によってのみ消費者として定義付けされるが、自分はそんなことに興味はない(強調筆者)と。1980年に出た『夷狄を待ちながら』について問われると、現代社会を引き合いにだして語り、野蛮とみなされる相手に対する防御自体が野蛮な行為に繋がる、と述べた。これはいわゆる先進諸国がもちだす「対テロ戦争」のことをいっているのかもしれない。
 
 また、歴史的に南アフリカで用いられた「アパルトヘイト」という語をイスラエル/パレスティナの関係にも使うことについて、3年前すでにパレスティナを訪れたとき、両者の状況を歴史的、社会的、経済的な観点からきっちりと定義して、こう語っていた。今回もまた、この語を使うことは建設的な話し合いを不可能にすると述べて、ヨルダン川西岸と東エルサレムでのイスラエルの行動を厳しく批判したと伝えられる。


*今回の文章を書くにあたって、ドイツ語の記事を翻訳してくださった市村貴絵さんに助けていただきました。どうもありがとうございます。Merci beaucoup!