2014/01/14

大辻都著『渡りの文学』/マリーズ・コンデの魅力

マリーズ・コンデの本格的研究書『渡りの文学』(法政大学出版)が出た。

 研究書といっても、非常に明解かつ読みやすい文章で書かれているので、誰もがアクセスできる。そこがなんといっても嬉しい。この本の著者、大辻都さんの話を聞く会が昨日、下北沢のB&Bで開かれた。

 大辻さんは長年、マリーズ・コンデを研究してきた人だ。この作家は、カリブ海は小アンティーユ諸島に浮かぶ蝶々のような形をしたグアドループという島に1937年に生まれている。大辻さんはその島々にも何度も足を運び、著者コンデの生まれ育った場所も訪れている。昨日は島の写真のスライドショーから始まって、管啓次郎さんのテンポのいい司会で、マリーズ・コンデという作家とその作品の魅力が縦横に語られる会になった。

 まずマリーズ・コンデとはどんな作家か、という大辻さんの話があり、それからゲストの小野正嗣さんがコンデの作品を歯に衣着せず分析し(小野さんは小説家であるだけでなく、このマリーズ・コンデで博士論文を書いている研究者なのだ!)、さらに作家の性格や生きざまに大胆に突っ込みを入れた。小野さんのぶっちゃけた話しっぷりと大辻さんとの絶妙なやりとりが、じつに面白かった。

 管さんの訳書『生命の樹』からの朗読をはさんで、話はカリブ海出身の文学者たちとコンデという作家の位置関係や、1950年代末に、当時アメリカスの黒人たち誰もがあこがれた故郷「アフリカ」へ、実際に行ってしまったコンデってすごいという話になって、そこで「あこがれのアフリカ」のイメージは粉々に打ち砕かれ、アフリカ社会内で彼女が女として体験したであろう、さまざまな困難辛苦へと聴衆の想像力をぐいぐい誘った。

 とりわけコンデの最初の作品『ヘレマコノン』が書かれるまでの、マリーズ・コンデという作家が誕生していくプロセスの興味深さ。この作品をまず彼女に書かせた一筋縄では行かない「体験」と彼女の思想のせめぎあい、そこに作家コンデの核となるものが埋まっている。それはいまでは、誰もが一致する意見だと思う。だが、この作品、読解は一筋縄ではいかない。読み手の「アフリカ理解」がぎりぎりと問われてくるのだ。

 コンデがたんにカリブ海文学の作家におさまりきらないところを理解するには、彼女がギニア人と結婚してコートディヴォワール、ギニア、ガーナ、セネガルと移り住むことによって経験した「アフリカ」をどう位置づけるかが鍵になる。だが、まだまだ日本の読者は、わたしも含めて「遠い点景」としての「アフリカ」しかイメージできないところにいる。
 その部分がやわらかく耕されていくなら、つまり登場人物がひとりひとりの個性をもった人間としてイメージでき、その背景まで含めて作品全体が浮かぶようになれば、マリーズ・コンデの作品と彼女がたどった行路とその奇跡が具体的に見える視野が開けるかもしれない。
 1976年の出版当時はほとんど無視されたというこの作品、たしかに、そう簡単にわかってたまるか、といった表情をしている。1976年というのは、それほど作家の「書く現場」と読者の「机上」の距離が大きく隔絶していた時代だったのだと思う。


 しかし、それ以後のコンデの作品行為は『渡りの文学』というこの本のタイトルがいみじくも示す通りだ。カリブ海/グアドループ、ヨーロッパ/フランス、アフリカ/ギニアやセネガルなど西アフリカ諸国、そしてアメリカ合州国、を往還したマリーズ・コンデという作家の人生の奇跡は、18、19世紀の大西洋をめぐる三角貿易の地理的移動とかさなり、そのまま、人間の移動、文化的移植の経路ともかさなって、現代にいたっているのだ。その作品世界は掘り起こされるのを待っている宝物のような気がする。
 
イギリス文学、フランス文学、アメリカ文学といった枠をすべて取っ払って考えざるをえない人間の営みを、地理的にも歴史的にも、彼女の作品ははっきりと示している。だから、コンデを読むということは、その奇跡のうえに読者が自分を置いてみる試みとならざるをえないのだ。

 ようやく、時代がマリーズ・コンデの作品に追いついた、ということなのだろう。

 ついでに、昨年、コンデについて毎日新聞書いたコラムをここにリンクしておこう!