2013/04/19

日本語という「異邦の言語」

 そうか。日本語はちょっとした外国語=異邦の言語だったのだ、わたしの場合。北の旧植民地から、18歳の春に東京へ出てきた人間にとって、それまで自分が使ってきたことばは正統な日本語ではなく、東京で使われる「日本語」はほとんど「外国語」に近い感触があった。ましてや、さらに西の京都など、はるかな、はるかな「異国」に感じられた。

「外国語」ということばを含む大学に入学して通った時代、あるいは通わなかった時代、わたしがもっとも真剣に学んだのは「外国語」としての「日本語」だったように思う。

 ひたすら日本語で書かれた書物を読んだ。とくに文学、近代のものも古典も手当たり次第に読んだ。授業が長期間なかったのをいいことに、フランス語や英語を「読む」ことはあとまわしにして、とにかく「日本語」で書かれた書物を読んだ。日本語の壁を突破しなければ、ヨーロッパ言語は把握できないとさえ思った。
 だから、冗談に「東京外国語大学 日本語学科卒業です」と言ったら「留学生だったの?」と訊かれたことがある。マジ? 
 そうかもしれない。確かに。異国へやってきた、という疑似感覚は、そんな感覚に通じるものがあった。おまけに浄土真宗の圧倒的に多い住民のなかで、両親はピューリタンだった。

 ヨーロッパから「約束の新天地」へ移住したピューリタンの末裔であるジョン・クッツェーという若者が、21歳で、アフリカの南端からはるか北の英国へ渡って感じたであろう心境を想像するとき、自分自身のそんな「違和感の記憶」が微妙に動き出すのだ。
 彼の作品を初めて読んで、ガツンと来たのは、いまにして思えば、そういう下地に響いたのだろうか。

「女なんか大学へやって、それも4年制の大学なんかにやって、どうするのか?」と母はまわりから言われたことだろう。わたしの耳には入らないようにしたのかもしれないが、あるいは、そんなことばに耳をかさずに、自分がはたせなかった夢を娘に託そうとして日々、がんばったのか。1960年代の旧植民地北海道の片田舎では「女なんか勉強なんかしなくてもいい」「勉強だけできる女なんかどうしようもない、旨い飯を炊けなければダメだ」とあからさまに言われた時代だ。

 息苦しいそんな日常から一瞬でも逃れたくて、わたしはひたすら本を読んだ。とにかく、狭い土地に閉じ込められたくないと思って。文学は生き延びるための空気穴だ。外へ開かれた窓なのだ。その感覚はいまも続いている。