E. Costello : I believe in what does not need to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/01/12

「翻訳という怪物」── いくつか考えたこと

昨年の11月19日、六本木のミッドタウンタワー7Fにあるスルガ銀行の d-labo というスペースで、すっごく刺激的なイベント「翻訳という怪物」が行われた。
 柴田元幸、ジェフリー・アングルス、管啓次郎という面々が、翻訳について熱く語る2時間だった。エミリー・ディキンソンの短い詩を、三人が個別に訳してきたのを比べていろいろ論じる趣向もあって、面白かったなあ〜〜〜 それを契機に考えたことがいくつかある。

まずひとつめ。管啓次郎さんがなにげなく発した、ヨーロッパ言語ではごく日常的なことばが、そのまま哲学や思想のことばであるのに対して、日本では近代において西欧の書物が日本語に翻訳される過程で、大和言葉とは歴然と区別される(それ以前の輸入言語である)漢語をベースにして創作された用語に訳されてきた、という指摘。こうしてわたしが書いたことばは、管さんの実際の発言をかなり主観的に聞き取り、書き換えたものであり、必ずしも管さんのことばそのものではないけれど、まあ、発言の趣旨はそんな感じだったと思う。この指摘は、ずう〜〜っと以前から気になってきたことでもあり、現在の日本の政治の場面で語られることばのぼろぼろ感、社会の「なかったことにする、見なかったことにする」どん底状態を考えるときに、大きなヒントになると思ったのだ。

 書物のなかのみの観念用語と、日常用語が歴然と分かれている、別に日本語だけに限ったことではないかもしれないが、よくもわるくも、それが現代の日本語なのだ。よい点はなかなか思いつかないが、悪い点ならいくつも思いつく。思想が現実に組み込まれえないため、困難な状況に立ち至ったとき役に立たない。「組み込まれえない」というところに、観念用語と生活用語の分離がたちはだかる、と考えることはできないか。

 また、ことばの意味そのものではなく、その裏の政治力学を読み取ろうとする「芸」の日常化、つまり「空気を読むこと」が「大人になること」だったり。これは「議論すること」の根底を危うくもしている。議論は、ことばに対する信頼がなければありえない。つまり字義上の意味そのものが、そのまま伝わることを前提としなければ議論にはならない。
 そして、現実に対して力をもたない観念用語の占有化──「生活」ときっぱり分離しているゆえの・・・。たてまえと本音。噓と頽廃。倫理観の欠如。大ざっぱすぎるのは重々承知で、まあ、そんなことを考えてしまった。

 八百屋のおばさんにも分かることばで書いてよ、とかつてわたしはある東京の大学教授に、半分冗談で、半分本気で言っていたことがあった。でも、その人は軽く「八百屋のおばさんは読まないよ」とのたもうたのだった。ふ〜ん。まあ、そうだけど。
 
 もうひとつは、ジェフリーさんが述べた「翻訳家=ストーカー説」。これには、はたと膝をたたいた。翻訳は面白いからやる、そこに快楽があるからやる、深く調べるのは対象を愛しているからで(完全な片思いだ!)、テクストの裏をどこまでも知りたいと思うところがストーカーみたいだ、と。ちょっと笑える、ちょっと切ない。でも言い得ているわ、ジェフリーさん。

 そして柴田さんの、好きなテクストしか訳さない、そのテクストの奥から声が聞こえてくるようなテクストしか訳さない、訳さないほうがいい、という正論。まあ、駆け出しのときはそうとばかりは言っていられないけれど(と具体例をジェフリーさんや管さんは出してはいたが)、こと文学作品についていえば、これはもう、まったくもってその通りだと思う。クッツェーの翻訳論にもあるように。

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しばらく前に書いたものだけれど、中島さおりさんのブログでこの催しについて書かれているのを発見! 遅ればせながらわたしもアップしました。