Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2013/01/25

クッツェーとオールダマストン



これは貴重な映像だ!

 いま翻訳中のクッツェーの自伝的トリロジー第二部『青年時代』には、彼が1961年暮れにケープタウンから船に乗り、翌年の初頭にロンドンの土を踏み、友人のアパートに身を寄せながら職探しをした話が出てくる。
 まず新聞の募集欄を頼りにいくつか面接を受け、最終的にはIBMで働くことになった。それから数年後に、このオールダマストンでコンピュータを用いた当時最先端をいく核兵器戦略のプログラミングをするのだ。しかし、ケンブリッジやオクスフォード出のエリートたちとはまったく異なる処遇を受ける。いわば属国である南アフリカ出身の彼と、インド出身の人物だけが、24時間監視がつき、トイレのブースまで見張られたのだ。
 
 1960年代、アパルトヘイトが高揚期に入る南アフリカから出国し(それが可能なのは当然、ある恵まれた条件の人だけだったが)、彼は「数学」の学士号を使って、とにもかくにも食いつなぐための職を得ながら、片方で修士論文の準備をしていた。『青年時代』には出てこないが、じつは1963年に彼はケープタウンにもどっている。そこで修論をしあげ(このとき最初の結婚をした)、ふたたび渡英してから就いたのがオールダマストンの仕事だった。あとから考えると「wrong」の側の仕事をした、と彼は『青年時代』で書いている。
 
 ポール・オースターとの『書簡集』では、この東西冷戦がなかったらアパルトヘイト体制はもっと早く終焉を迎えていたはずだ、とも書いている。1959年にこんなに大きなマーチが行われていたことを、彼は知っていただろうか? 

 そして1965年に、彼は文学研究の道へもどるべく、テキサス大学へ向かう。多くの大学に手紙を書き、片手ほどの返事をもらったなかで、テキサス大学がもっとも寛容な条件で彼を博士課程(講師の義務あり)に入学させてくれたからだ。だから、彼のペーパー類がすべてテキサス大学のランサム・センターへ移ったことは、いってみれば自然な成り行き。つまりこの大学に彼は恩義を感じているのだ。
 また、このセンターほど物理的条件に恵まれ、かつ、優秀な運営スタッフがそろっている場所もないのだろう。南アフリカ国内の施設では、残念ながら、とてもたちうちできそうもない。

もうすぐ73歳になるクッツェーさん。わたしも早く新しい訳書を出さなければ! 日々、ひたすら奮闘中です。頭が「クッツェー漬け」になっていく!