「水牛のように」という月刊の Webマガジン(といっていいのだろうな)に詩を連載しはじめて約2年になる。1、2度休んだことがあるけれど、ほぼ毎月書いてきた。
それらの詩はこのブログの右側「café」にリンクさせてあるので、いつでも読むことができる。
たいていの詩に、ある山の名前が出てくる。「ピンネシリ」、アイヌ語で「男の山」という意味だそうだ。でも、どういうわけか、そのことを知ったのはつい最近で、いや、どこかで何度か聞いたことがあったかもしれないが、記憶されず、深く認識されないままきてしまった。なぜだろう? いくつか思い当たることはあるのだけれど、どれも決定的な理由とはいいがたい。
幼いころ、北海道の地名はおおかたがアイヌ語起源であることは、母から聞いて知っていた。そのときは「ふ〜ん」と思うだけで、それが意味するところまでは考えることができなかった。考えないまま北海道を出てきてしまった。
考えなければいけないと気づいたのは、それからずいぶん時間が経ってから、幼いころは「滅んだ」と教えられたアイヌの人たちは「滅んでなんかいないのだ」と知ったときだ。勝手に「滅んだ」と決めつけたのはシャモ(和人)であって、滅ぼそうとしてきたのもシャモだと知ったときだ。村の小学校では開拓史の苦労話ばかり教えられた。そういう時代だったのだろうか。いやそれだけではない。
80年代になって早稲田大学で「アイヌ語」を学ぶ講座があることを知ったけれど、そのときは、ちいさな3人の子どもたちの世話に明け暮れ、始まったばかりの「アンニョンハシムニカ」をきくことで精一杯だった。しかし、それも長くは続かなかった。ハングル文字が出てきた時点で、ほぼギブアップ状態になってしまったからだ。
ひょんなことから、南アフリカの作家の小説を訳すことになり、南アフリカ文学、南部アフリカ事情に深入りすることになったときだっただろうか、幻視の地平線はるか遠くに、青い山なみがぽっかりと浮かんできたのは──。
それでもすぐに日本の北へ向かうことはなく、ひたすら南アフリカの文学に──とりわけ、J・M・クッツェーという、ヨーロッパからの植民者の末裔としてケープタウンに生まれた作家の作品群に──さらにはアフリカから出てくる文学に惹きつけられ、こだわりつづけてきた。
距離感がほしかったのだろう。私自身が植民者の末裔であるとあらためて知ったとき、そのことを考えるための歴史的な時間軸に裏打ちされた「遠くから見る堅固な足場」が必要だったのだろう。
自分が生まれた土地を曇りなく、しかも、余計な感情を交えずに、冷静に見る視点ができるまでに30年近くかかったことになる。まさに「水牛のように」である。やれやれ。
そしていま、ようやく「ピンネシリ」と向き合えるようになった。そう思う。
(左の写真はネットから拝借しました。あしからず)
それらの詩はこのブログの右側「café」にリンクさせてあるので、いつでも読むことができる。
たいていの詩に、ある山の名前が出てくる。「ピンネシリ」、アイヌ語で「男の山」という意味だそうだ。でも、どういうわけか、そのことを知ったのはつい最近で、いや、どこかで何度か聞いたことがあったかもしれないが、記憶されず、深く認識されないままきてしまった。なぜだろう? いくつか思い当たることはあるのだけれど、どれも決定的な理由とはいいがたい。
幼いころ、北海道の地名はおおかたがアイヌ語起源であることは、母から聞いて知っていた。そのときは「ふ〜ん」と思うだけで、それが意味するところまでは考えることができなかった。考えないまま北海道を出てきてしまった。
考えなければいけないと気づいたのは、それからずいぶん時間が経ってから、幼いころは「滅んだ」と教えられたアイヌの人たちは「滅んでなんかいないのだ」と知ったときだ。勝手に「滅んだ」と決めつけたのはシャモ(和人)であって、滅ぼそうとしてきたのもシャモだと知ったときだ。村の小学校では開拓史の苦労話ばかり教えられた。そういう時代だったのだろうか。いやそれだけではない。
80年代になって早稲田大学で「アイヌ語」を学ぶ講座があることを知ったけれど、そのときは、ちいさな3人の子どもたちの世話に明け暮れ、始まったばかりの「アンニョンハシムニカ」をきくことで精一杯だった。しかし、それも長くは続かなかった。ハングル文字が出てきた時点で、ほぼギブアップ状態になってしまったからだ。
ひょんなことから、南アフリカの作家の小説を訳すことになり、南アフリカ文学、南部アフリカ事情に深入りすることになったときだっただろうか、幻視の地平線はるか遠くに、青い山なみがぽっかりと浮かんできたのは──。
それでもすぐに日本の北へ向かうことはなく、ひたすら南アフリカの文学に──とりわけ、J・M・クッツェーという、ヨーロッパからの植民者の末裔としてケープタウンに生まれた作家の作品群に──さらにはアフリカから出てくる文学に惹きつけられ、こだわりつづけてきた。
距離感がほしかったのだろう。私自身が植民者の末裔であるとあらためて知ったとき、そのことを考えるための歴史的な時間軸に裏打ちされた「遠くから見る堅固な足場」が必要だったのだろう。
自分が生まれた土地を曇りなく、しかも、余計な感情を交えずに、冷静に見る視点ができるまでに30年近くかかったことになる。まさに「水牛のように」である。やれやれ。
そしていま、ようやく「ピンネシリ」と向き合えるようになった。そう思う。
(左の写真はネットから拝借しました。あしからず)