つい最近、あちこちの新聞で目にして、あれっと思った名前。
「ヒュー・ケナー」
どこかで読んだ名だ。どこだっけ? ウーン、ウーン。そうだ、思い出した!!
去年のいまごろ、クッツェーの『鉄の時代』の解説を書くために、1992年に出たエッセイ+インタビュー集『Doubling the Point/ダブリング・ザ・ポイント』を集中的に読み、インタビュー内の発言を解説に引用しようと部分的に訳していた。そこで読んだ名前だった。(クッツェーの博士論文はベケットだから、ケナーの名前は彼のビブリオグラフィーにもたくさん出てくる。)
ヒュー・ケナーの名前は、私が覚えているかぎり、2箇所出てきた。まず「ベケット」のところでインタビュアーのアトウェルが述べ、クッツェー自身も自分のことを回顧する最後のインタビューで触れている。『鉄の時代』の解説にこのインタビューから引用することは、前年暮れに著者とも打ち合わせをし、『鉄の時代』が出た直後のものだからと快諾を得ていた。
私が記憶していたのは後ろの部分。20代のころヒュー・ケナーに心酔していたクッツェーが、51歳のとき、それを批判的に回顧していたことだ。「ケナーが幅広い経験全体を──たとえば暮らしのこと、召使いがわたしたちのために・・・」という部分が強く印象に残っていた。このインタビュー、最初はそのまま解説に入れ込む予定でいたのだけれど、結局、使われることなくお蔵入りとなった。以下にそのケナーの名が出てくる箇所を、少しだけ引用しておこうかな。
*********************
<回顧>
10代のときこの人物は、この主体は、この物語の主人公は、このわたしですが、彼は多かれ少なかれこそこそと書いているわけです、できることなら、科学者になろうと決め、根気づよく数学の道を追求します、しかし、この分野での彼の才能はたいしたものではない。この決意をわたしはどう読解するか? こうです、つまり、彼はあるカプセルを見つけようとしている、そのなかで自分が、世界の空気を吸い込まなくても生きていける、そんなカプセルです。
それまでの生活で彼は、自分をとりまく環境に対する関心を、物理的にも、社会的にも欠いていた。彼は自分がいるどんな場所でも、内面へ引きこもって生きている。若いころ書いたものでは、アングロ・アメリカ的モダニズムのもっとも閉鎖的なものに歩調を合わせようとしています。彼はパウンドの『キャントーズ』に没頭する。批評家ではヒュー・ケナーが最高であると絶賛する。ケナーの知識の幅広さとウィットを賞賛しますが(それを模倣するには、嗚呼、彼はあまりにも生真面目すぎますが)、ケナーが幅広い経験全体を──たとえば暮らしのこと、召使いがわたしたちのためにすることはいわずもがなで──平然と無視することさえをも賞賛している。
21歳で彼は南アフリカを離れます。足もとからこの国の埃を振り払いたいといった気持ちで。1960年代半ばに、学者の生活を送りたいと思って、コンピューター職を離れます──彼にとっては水難救助的な決定です──文学といっても彼が研究対象として目指すのは、きわめて狭い意味のものです。ベケットがその生涯で彼もまたフォルムに、自己閉塞的ゲームとしての言語に取り憑かれていた時期に書かれたテクストに集中して、彼はベケットについての形態論的分析論を書きます。
『Doubling the Point/ダブリング・ザ・ポイント』
──p393(Harvard Univ. Press,1992)
「ヒュー・ケナー」
どこかで読んだ名だ。どこだっけ? ウーン、ウーン。そうだ、思い出した!!
去年のいまごろ、クッツェーの『鉄の時代』の解説を書くために、1992年に出たエッセイ+インタビュー集『Doubling the Point/ダブリング・ザ・ポイント』を集中的に読み、インタビュー内の発言を解説に引用しようと部分的に訳していた。そこで読んだ名前だった。(クッツェーの博士論文はベケットだから、ケナーの名前は彼のビブリオグラフィーにもたくさん出てくる。)
ヒュー・ケナーの名前は、私が覚えているかぎり、2箇所出てきた。まず「ベケット」のところでインタビュアーのアトウェルが述べ、クッツェー自身も自分のことを回顧する最後のインタビューで触れている。『鉄の時代』の解説にこのインタビューから引用することは、前年暮れに著者とも打ち合わせをし、『鉄の時代』が出た直後のものだからと快諾を得ていた。
私が記憶していたのは後ろの部分。20代のころヒュー・ケナーに心酔していたクッツェーが、51歳のとき、それを批判的に回顧していたことだ。「ケナーが幅広い経験全体を──たとえば暮らしのこと、召使いがわたしたちのために・・・」という部分が強く印象に残っていた。このインタビュー、最初はそのまま解説に入れ込む予定でいたのだけれど、結局、使われることなくお蔵入りとなった。以下にそのケナーの名が出てくる箇所を、少しだけ引用しておこうかな。
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<回顧>
10代のときこの人物は、この主体は、この物語の主人公は、このわたしですが、彼は多かれ少なかれこそこそと書いているわけです、できることなら、科学者になろうと決め、根気づよく数学の道を追求します、しかし、この分野での彼の才能はたいしたものではない。この決意をわたしはどう読解するか? こうです、つまり、彼はあるカプセルを見つけようとしている、そのなかで自分が、世界の空気を吸い込まなくても生きていける、そんなカプセルです。
それまでの生活で彼は、自分をとりまく環境に対する関心を、物理的にも、社会的にも欠いていた。彼は自分がいるどんな場所でも、内面へ引きこもって生きている。若いころ書いたものでは、アングロ・アメリカ的モダニズムのもっとも閉鎖的なものに歩調を合わせようとしています。彼はパウンドの『キャントーズ』に没頭する。批評家ではヒュー・ケナーが最高であると絶賛する。ケナーの知識の幅広さとウィットを賞賛しますが(それを模倣するには、嗚呼、彼はあまりにも生真面目すぎますが)、ケナーが幅広い経験全体を──たとえば暮らしのこと、召使いがわたしたちのためにすることはいわずもがなで──平然と無視することさえをも賞賛している。
21歳で彼は南アフリカを離れます。足もとからこの国の埃を振り払いたいといった気持ちで。1960年代半ばに、学者の生活を送りたいと思って、コンピューター職を離れます──彼にとっては水難救助的な決定です──文学といっても彼が研究対象として目指すのは、きわめて狭い意味のものです。ベケットがその生涯で彼もまたフォルムに、自己閉塞的ゲームとしての言語に取り憑かれていた時期に書かれたテクストに集中して、彼はベケットについての形態論的分析論を書きます。
『Doubling the Point/ダブリング・ザ・ポイント』
──p393(Harvard Univ. Press,1992)