1950年8月、安東次男は初詩集『六月のみどりの夜わ』を出した。その「あとがき」を少しだけ、ここに写す。
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ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。
──以下略──
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日付は1950年2月10日、安東次男が30歳のときに書いたものだ。
私がよく思い出すのは「感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ」というところ。
私がクッツェーの『マイケル・K』の第3章は不要ではないかという意見に頷けないのも、『夷狄を待ちながら』の終章についての感想を書いたのも、ごく若いころ読んだこの詩人のことばが、長い時間を経て自分ものになってしまったからかもしれない──つい最近、気づいたことなのだけれど。
この詩人のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か A氏だった。
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ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。
──以下略──
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日付は1950年2月10日、安東次男が30歳のときに書いたものだ。
私がよく思い出すのは「感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ」というところ。
私がクッツェーの『マイケル・K』の第3章は不要ではないかという意見に頷けないのも、『夷狄を待ちながら』の終章についての感想を書いたのも、ごく若いころ読んだこの詩人のことばが、長い時間を経て自分ものになってしまったからかもしれない──つい最近、気づいたことなのだけれど。
この詩人のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か A氏だった。