11月1日、世田谷文学館で「マッチョなアフリカに「愛はくる」か?」という、我ながらどこから湧いてきたんだろ? と思うようなタイトルで話をした。
5回の連続講座で共通のテーマが「愛」。ええっ? そういうのめっちゃ苦手なんだなあ、と一瞬思ったけれど、他の4人の講師陣を眺めやると、ほぼ男性で、私とほぼ同世代で、となると「愛」は舌に美味なる大きなテーマに違いない。苦い愛も含めて全体には愛への讃歌に満ちた作品が登場するんだろうと想像がついた。アフリカンの文学をどう関連させればいいの? 困ったな、と思っているうちに、藪から棒に浮かんだのが「マッチョなアフリカに「愛はくる」か? こないよな〜〜」という脳内会話だ。後ろの部分はもちろん省いて、それでいくことにした。
最初はこれまで訳してきたアフリカンの文学全般について、思いつくままにあれこれ話をするつもりだった。ところが、夏にJMクッツェーの自伝的三部作『少年時代』を再読しはじめて、頭はすっかりケープタウンとヴスターに行ってしまった。2011年のケープタウン旅行の写真などひっぱり出して眺めているうちに、たった1.5時間にまとめるなら、これだけでめいっぱい。そこで朗読は『少年時代』の第一章と、クッツェーの愛してやまないカルーの農場フューエルフォンテインがベースとなった短編「ニートフェルローレン」(『スペインの家』所収)からとした。当然、話はヴスター時代の少年ジョンと農場生活のことにしぼられてくる。『少年時代』第一章は、田舎町のヴスターへ引っ越して、狭い家に閉じ込められたくない、と思った母親が、中古の自転車を手に入れてなんとか乗りこなす話。ところが「女は自転車になんか乗らないもんだ」という周囲の意見に加勢して、少年は父親といっしょに冷やかす側にまわってしまう。ずっと悔いていたのだろうか、フェミニズムからクッツェー自身が学んだ成果なのか、とにかくそれをなんとか贖おうとすることばでこの章は終わる。
三部作をまとめて訳出した2014年からすでに11年が過ぎた。2021年には、カメラマンになりたかったクッツェーが十代に撮影した『少年時代の写真』も日本語版が出版された。そこに岩だらけの平地を背景に、貯水地で水を飲む子羊の写真がある。これがいい。じっといつまでもながめていたくなる写真だ(このブログ最初の写真)。キャプションに「フューエルフォンテイン、クッツェー家の農場、カルーのプリンス・アルバート通り」とある。
そうか、『マイケル・K』の主人公がめざしたプリンス・アルバートは、フューエルフォンテイン農場のある土地のことだったのか! 母親が幼いころ過ごした農場へ連れて帰ってくれ、そこで死にたい、と懇願した。そこでマイケルは手作りの手押し車でプリンスアルバートを目指す。プリンスアルバートとは、クッツェーの愛する農場がモデルだったのだ。
というわけで文学館での話は「母親への愛(憎)と農場への愛」が中心になった。「愛」というと、きっと男女のロマンチックな愛を思い浮かべる人が、とりわけ同世代には多いことだろう。そこをちょっと「外した」のは無意識だったのか、意識的だったのか。おまけに、クッツェー自身が『サマータイム』で、死んでしまったジョン自身に、自分は文学とか音楽とか詩なんてものは「女々しい」とされた「マッチョ文化」が優勢な社会で育ったんだ、と言わせている。だから。マッチョなアフリカに「愛はくる」か?⎯という問いに率直に答えるなら、どうかな、来ないな、マッチョなまんまじゃ無理だろな、日本だって同じだけどな、と思いながら話をしたのだった。「アフリカで癒されたい」と「マッチョ」をポジティヴな意味にとった人には期待外れだったかもしれないけど😅。
とにかく無事に終わってよかった2025年の秋のイベントでした。お世話になったスタッフのみなさん、わざわざ足を運んでくださった大勢の方々、どうもありがとうございました。