昨日、『現代詩手帖 9月号』の森崎和江をめぐる座談会を読んだ。三段組の小さな文字を、あまり明るくない図書館で、周囲の物音が聞こえなくなる集中度で一気に読んだ。そのせいか、このところ徐々に降り積もってきた眼精疲労が限界を超えた。
しかし、森崎和江にふたたび光があたっているのを見逃すわけにはいかない。だって、77年から80年代はじめに、子育てに24時間専念せざるをえない時代をへて、ようやく読書の時間を確保できたとき、北米黒人女性作家選のほかに何をおいてもまず読んだのは森崎和江の本だったからだ。それは偶然というよりも必然だったとしか思えない。そのことを昨日の座談会を読んで確認した。
森崎和江は、フェミニズムはともかく、90年代に脚光を浴びはじめたポストコロニアルの問題を、それより10年も前から、彼女みずからの朝鮮半島からの引き上げ体験を踏まえて言語化しはじめていた人だった。
外地から内地への引き上げ体験とはなんだったのか?
いま手元にある森崎和江の本たち |
ちなみに『現代詩手帖』の座談会で話題になった石牟礼道子の文章が「男をファックする文体」だと上野千鶴子が喝破することばに、快哉を叫んだ。本当に! あの前近代を美化する文章には、いってみれば「母親の子宮への回帰願望」に酷似する魅力というか、魔力があるのだ。ある種のエロスに通底するものとそれを名付けられようか。
それにしても、「男をファックする文体」という上野の表現は妙である。子宮回帰願望は、女より男に強烈であることを見通した指摘である。父親になってさえも男たちからその願望は消えなかったし、いまも消えない人が多い。女は母親になったときに、よほどのことがないかぎり、その願望は消滅せざるをえない現実を突きつけられる。この身体ははたして「わたし」なのか? 森崎は子供を孕んだとき「わたし」ということばを使えなくなったという。
なぜか手元にない? |
3人の子供たちをこの世に、文字通り「産み出した」身として、この事実はとても重たい。身体的には間違いなく、異物に(自分以外のものに)占領される、占拠されていく、そういう感じがしたものだ。身二つになっても、まだ授乳という仕事によって、きっぱりと分かれられない。赤子が泣き声をあげるたびに引き寄せられ、乳房が張り詰めるたびに赤ん坊のことを否応なく感じ、考える。そのように生理的に作られている母体とは?
森崎は、そのことをとことん突き詰めて言語化した女性だ。でもそれを言語化することばは男性の文体だった。だから、正直いってあまり魅力的ではなかった。しかしこれは朝鮮半島で生まれ育った森崎にとっての「母語」とはなにか、という問題と不可分なのだ。内地の言語、九州の日本語は森崎にとって異国の言語だった。もちろん朝鮮語は文字通り異国語ではあったけれど、乳母の背中で聞いたことばは彼女にとって母語に近かったかもしれないが、それは日本語ではなかった。だから、引き上げてから森崎はあらゆる意味で、言語を獲得するたたかいを強いられた。
その「たたかい」の軌跡が、森崎の先駆性をあらわしてもいるのだ。
60年代からこつこつ聞き書きをしてきたものが『からゆきさん』や『まっくら』として本になったあたりから、森崎のことばは、文学として一気に開放されていく。森崎和江の書いた本が若い読者によって読まれ、その研究が、フェミニズム文学として、さらにポストコロニアル文学として、深まっていくことを強く願わずにはいられない。
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追記:上野千鶴子の語りのなかで面白かったのは、戦時中、子供を産まなかった高群逸枝が母性を礼賛するファシストのイデオローグになったのにたいして、17人も子供を産んだ与謝野晶子が徹底的に個人として生きたという指摘だ。これは目からウロコ。高群逸枝の全集を編纂した夫の橋本憲三がそのことを隠蔽した事実を研究者たちが、のちに国会図書館へ足を運んで資料を発掘することで明らかにしたという指摘も興味深かった。子供を産んだから、産まないから、がその人の思想を決定するとは限らないのだ。母性を礼賛するのは、たいてい男で、それにのっかる女がいるかどうか、あるいは生き延びるためにのっからざるをえない状況が切羽詰まっているかどうか、それが80年代以前の女たちをとりまく歴史状況だったのだ。選択肢はほぼなかった。