Elizabeth Costello : I believe in what does not bother to believe in me.──J. M. Coetzee

2018/01/27

アディーチェ:ナイジェリアの書店について、図書館ではなく

1月25日の夜、パリで「思想の夜」というイベントのこけら落としにチママンダ・ンゴズィ・アディーチェのインタビューが行われ、その動画を昨日ここにもアップしましたが、質問の内容が物議をかもしているようです。
 それについてアディーチェ自身がfacebookに、以下のような文章を投稿しています。
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フランス人ジャーナリスト:ナイジェリアであなたの本は読まれていますか?
アディーチェ:はい。
仏ジャーナリスト:ナイジェリアに書店はありますか?
アディーチェ:はあ?
仏ジャーナリスト:こんな質問をするのは、フランスの人たちが知らないからです。彼らはボコ・ハラムのことしか知りませんので。
アディーチェ:なんというか、あなたがその質問をするのは、フランスの人たちのことをきちんと表していないと思いますよ。

上のやりとりは、すばらしい「思想の夜」というイベントのこけら落としに、昨日パリで行われたインタビューからの、わたしが覚えている抜粋です。
どうやら、フランス語の「librairie」が、本当はbookshopのことなのに、英語の「library」(図書館)と誤訳されたようです。

フランスの人がナイジェリアのほとんどすべてを知っていると、わたしは期待していません。わたしもフランスのほとんどすべてを知っているわけではありません。でも、「フランスの人たちに、ナイジェリアには書店があると言ってください、彼らは知らないから」という質問は、故意による後ろ向きの考え──アフリカはあんなに遠く離れているし、あんなに病理学的に「異なっていて」、非アフリカ人にはそこでの生活を理性的に推測することが不可能だという考えです。

わたしはナイジェリア人の作家です。初期教育をナイジェリアで受けました。ナイジェリアには少なくとも書店がひとつはあると考えるのが妥当です。わたしの本はそこで読まれているのですから。

質問が「本にアクセスするのは難しいですか?」とか「本は手ごろな価格で売られていますか?」だったら、話はちがっていたでしょう。それならもっと内容の濃い話もできたし、フェアです。

世界中でいま書店の数が減ってきています。それなら議論したり、嘆いたり、希望をもって変えていく価値があります。ところが「ナイジェリアに書店はありますか」という質問は、それについてではありませんでした。むしろアフリカに対する、意図的な、偉そうな、うんざりする、全面的な、さもしい無知に正当性をあたえるものでした。そんなことにわたしは我慢できません。

ひょっとしたらフランス人は、ナイジェリアを書店がある場所と考えることが本当にできないのかもしれません。これは、2018年に、相互に連絡を取れるインターネットの時代に、とても残念なことです。
つまり、ジャーナリストのキャロリーヌ・ブルエは知性的で、思慮深く、準備もよくしていました。彼女がその質問をしたとき、わたしはぎょっとなりました。なぜなら、それ以前に彼女がした質問より、ひどく程度の低いものだったからです。

いまなら彼女がアイロニーを出そうとしていたことがわかります。「無知を演じる」ことによって啓蒙するために。でも、それまでアイロニーとなるものがまったく示されていなかったために、わたしにはそれが認識できませんでした。彼女のアイロニーは本気の試みでした、面白くなかったとはいえ、だから彼女がおおやけに笑い者になってほしくありません。

書店についていえば、ラゴスのイコイ地区のアウォロウォ通りにある「ジャズホール」という店が、わたしのお気に入りです。わたしの育ったスッカには、オギゲ市場にあった、埃っぽい小さな書店の良い思い出があります。わたしの故郷出身の、穏やかな物腰の、ジョーという男性の店でした。『So Long A Letter』(註:マリアマ・バーの小説、野間賞受賞作品)を買ったのはその書店でした。
わたしの叔父のサンデイは母の弟ですが、30年以上もマイドゥグリに住んで、そこで書店を経営していました。
最近になって、彼がマイドゥグリはもう安全ではないと感じ始めて、東部へ引っ越したとき、叔父さんの書店がなくなったことがわたしにはとても悲しかったのです。

CNA