安東次男氏が逝ってから15年がすぎた。今日4月9日は彼の命日。1950年8月、安東次男は初詩集『六月のみどりの夜わ』を出した。「あとがき」から引用する。
ぼくは時には政治という風景を、時には文学という風景をじぶんに許されたものとしてしらずしらずそれをゆるめたかたちで書いてきたようにおもう。しかしこれは安易にあまえた態度であり、最後のぎりぎりのところでじぶんの人間的立場をあいまいにするものだということを感じはじめている。
そういうところからぼくはもういちど歌いなおさねばならぬ。ぼくにはアラゴンのいうような「たたかい」も「人」もうたえてはいない。そのことはぼくに、あらゆる「たたかい」の場に於て──ぼくがそれを黙認してきたかたちになつたかつての日本帝国主義侵略期の戦争をもふくめて──いかに抵抗を持ちつずけることがむつかしいかということをおしえた。このおしえはぼくにとつてもう決定的なものとなるであろう。
そういうところからぼくは持続する歌をうたっていきたい。感情の高まりの頂点に立つような歌ではない。感情の低まつた谷間谷間がそのままで頂点に立つような歌をだ。
(下線は引用者)
人それを呼んで反歌という |
「叙情詩は危ない」時代がある、という危機感をもったのはいつだろう。抒情的なものに感動し、なにかと一体化する至福感に酔って、足元を一気にすくわれていくのは危ないと思ったのはいつだろう。抒情的なものに満たされる自分がいることに気づいたときがあった。日本的抒情(あわれ)が現実を見えなくすることにも、そのとき気づいた。うっとりと溶ける、自他の境界が消える、それはこの土地では、下手をすると、自己憐憫や自己惑溺と表裏一体だ、という覚醒が危機感のように襲ってきたのはいつだろう。
抒情については、1969年の激動の時間のなかでよく考えた。それはよく覚えている。抒情というのとは少しずれるが、セックスによって全宇宙との一体化をめざすヒッピー思想が嫌いだったのは、それが理由かもしれない。女は当然のように「一体化される客体」としてもとめられた時代だ。それを称揚する歌も流行った。奥村チヨの「恋の奴隷」、広田三枝子の「人形の家」。和製フォークもひどく薄っぺらく思えた。いつか足をすくわれる、日本浪漫派のように、と思った。
暴力について、人と人がかかわることについて、両方の立場から考えてみることを自分に課したのもそのころだった。人とのかかわりが、結果として、抑圧や暴力となってしまうことがあるのかと、愛も、情も、そういうものを伴わずにはありえないのだろうか、と。
以来、ぬくもりはいつも渇いた場所で見つけてきたように思う。男も女も、厳しい表情がふいに破れて笑顔になるときほど、その人の優しさが強く感じられるときはない。
たぶん、抒情詩と別れたのは、あの時代だったのかもしれない。うっとりする、足をすくわれる、それはなにかに盲目になることを意味すると、気づいてしまったからだ。Love is Blindという歌に、だから、泣いた。
安東次男のことを、晩年は「国内亡命者」のように暮らしていた、といったのは確か 粟津則雄氏だった。
この国を捨てばやとおもふ更衣 流火