「わたしはいま、なぜ、ここにこうしているのか?」を考えるための刺激的な本がまた一冊あらわれた。台北の古地図の上の、透明な東京の街を背負ったヤドカリの表紙とともに。
著者の温又柔は1980年生まれだから、わたしにとっては子供たちの世代に属する。3歳のときに台湾から日本に移り住んだ。それまで乳のように吸収し、彼女を取り囲む人たちとコミュニケーションに使われていたのは、台湾語混じりの中国語だった。それが温又柔が世界と初めて出会ったときの言語だ。といっても「そういうことだったのか」と彼女が認識するまでの過程は、それほど単純ではない。
日本へ移り住み、幼稚園に通いはじめたとき、彼女の言語環境に決定的な変化が起きる。日々、ニホンゴが圧倒的な質量をもって彼女の世界へ侵入しはじめるのだ。どうしてわたしは「みんな」と違うのか──幼い人が家族以外の「世界」で多かれ少なかれ、まず出くわす大きな疑問だ。それが言語や文化の差異をともなうと、ちょっとした戸惑いが何倍もの重さでのしかかってくる。その違和の感覚が丁寧に、丁寧に書かれていく。
ニホンゴはまた、大日本帝国による占領期に成長した彼女の祖父母の世代が、学校で強制された言語でもあった。その子供の世代にあたる彼女の両親は、中国本土からやってきた蒋介石の国民党政権によって中国語が「国語」として強制される時代に成長した。もとからあった台湾語/閩南語を生活の基層に残しながらも、外から言語を制度として強制される、それを二世代にわたって体験した人たち、それが温又柔の祖父母と父母なのだ。
著者自身は、みずからの選択とはこれまた無縁に、日本語を使う「社会」のなかに埋め込まれた。そこで出会ったさまざまな「違和感」がたどり直されるプロセス。そしてあとから獲得したニホンゴで書く作家、温又柔が誕生するプロセス。
著者はその絡み合った体験を解きほぐし、さまざまな光をあてながら、時間をかけて思考し、言語化し、それを見通しのきく書き方で、問いとして読者に差し出す。「国」とは何か、「母国語」とは何か、「母語」とは何か。台湾という土地がたどってきた歴史をしなやかな日本語で、あくまで自分の体験に即して記述しようとする。だが、この作家の文章が明示する朗らかな作法の奥には、ここに至るまでに経験したであろうなみなみならぬ煩悶がかいま見える。その努力の果実を、柔らかく強靭な精神に裏打ちされた日本語で(ときに中国語や台湾語にピンインもまじえて)、惜しげもなく読者の前にならべてくれるのだから、これは日本語とその言語使用者へのかけがえのない贈り物というしかない。
まるで、長旅に疲れてたどりついた宿で出された温かいスープのように、わたしはこの本を読んだ。身心に沁み入る滋養ゆたかなことばとして。明朝の目覚めを確かに約束することばとして。
「わたしは台湾をもっとよく知りたい。それは、他でもない日本を知ることでもあるのだから」──p171。「わたしのパスポートは日本語」──p180。「中国語や台湾語を次から次へと日本語に置き換えるようになった7歳の頃、きまじめな「翻訳家」がわたしのなかで生まれ……」──p232。この作家特有のさわやかな、しかし、はっとする表現がちりばめられている本書の圧巻は、やはり、日本が植民地統治した台湾で呂赫若が日本語で書いた作品をめぐる章だろう。ここを読むと、言語と言語をまたぐ翻訳について、「ニホンゴ」と他の言語とのあいだだけでものを考えてきた人間の足元がぐらりと揺れるはずだ。こ気味よく。
この本が書かれたこと、そしていま読まれることは、だから、大きな希望だとわたしなどは思う。「言の葉」という表現にあらわれる、いかにも状況に引っ張られ、流されてしまいがちな軸のないニホンゴ感覚に、この本は一本のしやなかな軸を打ち込んでくれるからだ。そして「日本語は日本人だけのものなのだと錯覚してもおかしくない状況が、長いこと続いていた」と過去形で明記し、かつ体現する者の存在が、いまどれほど貴重かがはっきりと認識できるからだ。「日本語使用者」にとってそれは計り知れない贈り物である。書くとは、まさに、あたえて、あたえて、あたえることなのだ。
3.11以降、わたしはニホンという土地に生まれたというより、ニホンゴという言語内に産み落とされて生きてきたと考えるようになった。そして、ニホンゴのなかで生きつづけるのだと意志するようになった。おそらくこれは、わたしだけではないだろう。この本には、そんな「ニホンゴ使用者」の心に強く響くものがある。
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追記:Muchas gracias、又柔さん。
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追記:Muchas gracias、又柔さん。